昔から、馬鹿につける薬はないという。薮崎(やぶざき)学(まなぶ)も、そんな男の一人だった。
梅雨が明け、暑い夏が始まったこの日の朝も、いつものように藪崎は地下鉄に揺られていた。
「あっ! 私、降りますので…」
年の頃なら17、8と見える可愛い女性が、ニッコリと微笑(ほほえ)みながら目の前に立つ藪崎に言った。身なりからして、どうもこの辺(あた)りに勤めるOLぽかった。可愛い美人にそう言われれば、さすがに悪い気はしない。
「どうも…」
軽く一礼をしながらポツリと言うと、藪崎は操(あやつ)り人形のようにその女性と入れ替わって座っていた。女性は藪崎に一瞥(いちべつ)することなく、そのまま出口へと向かった。普通なら、話はこれで終わりである。だが藪崎はお馬鹿である。座りながら、アレコレと思いを巡らした。ニッコリと微笑んだ…俺に声をかけてまで座席を譲ってくれた…これはもう、俺に好意があるからに違いない…と薮崎は思った。いや、お馬鹿な藪崎は独断と偏見で、そう断定した。
次の日の朝、藪崎は同時刻の電車に乗り込み、車内を見回していた。しかし、そう上手(うま)く偶然が重なるはずがない。お目当ての可愛い女性は乗っていなかった。藪崎はお馬鹿である。次の日の朝も、そして次の次の日の朝も、藪崎は見回し続けた。だがやはり、お目当ての可愛い女性は乗っていなかった。そして、半年の月日が過ぎ去ろうとしていた。
藪崎が諦(あきら)めかけたある日の朝、歩いていた舗道で偶然、そのお目当ての女性を発見した。相手も歩いていて、対向から近づいてくるではないか。もちろん、向うは薮崎のことはすっかり忘れているようで、表情一つ変えなかった。近づいたその女性と擦(す)れ違った瞬間、薮崎は意を決して声をかけようとした。そのとき、どこから現れたのか、運悪く一匹の虻(あぶ)がブ~~ンと羽根音を立てて薮崎を威嚇(いかく)した。正確には自分の存在を主張して注意を喚起(かんき)したのだが、お馬鹿な薮崎は手で虻を振り払った。これがいけなかった。蜂のひと刺しならぬ、虻のひと刺(さ)しである。片腕をチクリ! と刺され、薮崎はアタフタとした。
「大丈夫ですか? あの…これ、使って下さい」
どういう因縁なのだろうか、その女性はポシェットから軟膏を出し、電車のときと同じようにニッコリと微笑んだ。
「どうも…」
ポツンと軽く一礼をしながらそう言うと、藪崎は操(あやつ)り人形のように、その軟膏を受け取り、片腕に塗っていた。女性は藪崎から軟膏を受け取ると、何もなかったように立ち去った。藪崎はその後ろ姿を、ただ茫然(ぼうぜん)と見送っていた。馬鹿につける薬はあった。
THE END