茂木桜(もぎざくら)万太郎は、ほぼ老人に近くなった中年後期のしがない痩(や)せ男である。町役場を退職後、細々と年金で生計を維持していた。妻の里美も十分働かせた痩せ馬に敢(あ)えて鞭(むち)をいれることなく好きにさせているから、茂木桜は助かっていた。侘(わ)びしい暮らしながら、金に不自由するほどのこともなく、妻との年金である程度は満足感を得ていた。
茂木桜はこの日も朝から日課にしている盆栽の水やりを済ませ、さてと…と、まったりソファーに腰を下ろした。里美が温めてくれた暖かいミルクをフゥ~~フゥ~~と美味(うま)そうに啜(すす)っていると、キッチンから声が飛んできた。
「これ、錆(さび)ついちゃってるの! 研(と)いで下さらな
い?」
茂木桜が視線を声がした方に向けると、妻の里美が前の洗い場で包丁を翳(かざ)していた。手の空(あ)いた茂木桜は断る理由が見つからなかった。
「ああ…いいよ。そこに置いといてくれ」
このひと言(こと)が彼の人生を狂わせた・・ということはなかったが、かなり茂木桜を手古摺(てこず)らせる結果となった。
錆を取る・・この作業は簡単そうに見えてなかなか、ねちっこいコンニャク作業なのだ。コンニャクはスパッ! と切れそうで切れない柔らかさがあるが、それであった。今風に言えばファジー、文語風に表現すれば曖昧模糊(あいまいもこ)なのだ。
茂木桜が砥石で研ぎ始めて十数分したが、さっぱり錆はとれなかった。しばらく放置してあった包丁のようで、錆が深くなっていたのである。茂木桜は離婚して今は家にいる娘の沙代の顔が、ふと包丁にオーバーラップして浮かんだ。包丁は錆を修復できるうちに研がないと駄目にしてしまう。夫婦関係も修復可能なうちに蟠(わだかま)った感情の錆を取らないと駄目になってしまう。沙代の場合は研ぎ忘れて駄目になったのだ。俺達も危うい危うい…と、茂木桜は力を入れて真剣に包丁を研ぎ始めた。
THE END