交番へ駆け込んだ男は、妙な遺失物を取り出すと若い巡査の前へ置いた。
「なんですか? これは…」
若い巡査は妙な遺失物を手にすると、怪訝(けげん)な面持ちで右から左から・・上から下からと見回した。
「いや~、それは私にも分からんのですがね。一応、お届けしようと思って…」
その遺失物は、外見上は小型の電気機器に見えたが、現在、市場(しじょう)に出回っているものとは異質の、精巧な機器のように見えた。
「どうかしたか?」
先輩と思われる初老の巡査が現れた。
「いえね…これ」
若い巡査は初老の巡査に遺失物を手渡した。
「なんだ、これは?」
初老の巡査も見たことがないだけに、あんぐりした顔で妙な遺失物を見回した。
「届けがあったんですから、遺失物ですよね?」
「そら、そうなるだろう。人が使うもので道に落ちていたんならそうだろう。そうだろ?」
今一、自信なさげに、初老の巡査は逆に訊(たず)ねた。
「はあ…まあ、そうなんでしょうか?」
「あの、もう帰っていいですか?」
「いや、ちょっと待って下さい! 拾得物件預り書を書いていただきます…」
「そんなもの、結構ですよ。拾って届けただけですから…。いらない、いらない!」
駆け込んだ男は迷惑そうな顔をした。
「いや、そう言われましても、一応、規則ですから…」
「私ゃ、急いでるんだっ! 国民を守る警察が国民を困らせて、どうするんですっ!」
立場が逆転し、男は二人の巡査を説諭(せつゆ)した。
「いや、それはそうなんですが、私らも困りますんで…。オタクのご要望どおりですと、権利放棄となりますが、その場合でも、こちらに書いていただいて…」
「どうしてもですか?」
「はい、どうしてもです。遺失物法施行規則第3条で提出した物件を放棄する旨の申告があったときは、拾得物件控書の権利放棄の申告の欄に提出者の署名を求めるものとする・・と、ありまして」
「わっ!! 凄(すご)いですねっ、先輩!」
若い巡査が感嘆(かんたん)の声を漏(も)らした。
「ははは…試験はダメだったが、これでも巡査部長だ、私は」
「でしたね。次は警部補試験、受かりますよ、きっと」
どうでもいいから早くしてくれ! と男は思った。
「それにしても…なんでしょうな?」
初老の巡査は届けた男に振った。
「さぁ~」
男は、俺に訊(き)いてどうするんだ、と思ったが、話を合わせた。三人は妙な遺失物をシゲシゲと見ながら首を傾(かし)げた。その遺失物は異星人がうっかりUFOから落としたものだった。
THE END
溝下(みぞした)静男が車を運転していると、突然、若者が運転するオ-トバイがバリバリバリ! と賑(にぎ)やかな音を出し、追い抜いた。おお! 格好いいなっ! と思った瞬間、今度は白バイが、ウゥ~~~! とサイレンを鳴らして横を通過した。
「前の車! 止まりなさいっ!」
白バイに乗った、これもまた格好いい警官が発するマイク音が溝下の耳にも届いた。しばらく、バリバリバリ!とウゥ~~~!による音の競争が続いたが、5分弱すると、静かに消えた。溝下は、止められたな…と思いながら車を走らせ、前方を注視した。すると、白バイが前方に見えてきた。ああ、やはりな…と思ったが、通過したとき、おやっ? と思った。白バイは止まっていたが、オ-トバイの姿がなかった。事情は分からなかったが、どうも逃げられた感がしないでもなかった。なんだ! しっかりしろ! 白バイ…と応援しながら、目的の地で荷を降ろすと、急いでUターンした。今日は同じルートをまだ2往復しないといけないからだった。
溝下が車を運転して途中までやってきたとき、またバリバリバリ! と賑(にぎ)やかな音がしてオ-トバイが溝下の車を猛スピードで追い抜いていった。若者は格好いいが、70キロは出てるな…と思えた。そう思った直後、またウゥ~~~! ときて、白バイと格好いい警官が見えた。心なしか警官が萎(な)えて見えたから、警官、ガンバレ! と溝下は、また内心で応援していた。多少、追い抜かれた悔(くや)しさが潜在意識であったからかも知れなかった。
「前の車! 止まりなさいっ!」
行きと同じように、警官が発するマイク音が聞こえ、バリバリバリ! ときた。そして、バリバリバリ!とウゥ~~~!の音競争がし、また5分弱で消えた。やがて溝下は、工場へ戻(もど)り、2度目の積み荷を積むと、また発車した。また、バリバリバリ! が抜くんだろうな…と期待せずに期待していると、やはり
バリバリバリ! は聞こえた。だが、格好いい若者とオ-トバイの姿は現れなかった。当然、格好いい警官と白バイの姿も現れなかった。なんだ…と楽しみをとられたように溝下はテンションを下げた。そして、3度目の最後の積み荷を降ろし、帰途についたときもバリバリバリ!とウゥ~~~!の音のみだった。
その後も運転中、バリバリバリ!とウゥ~~~!の競争音が溝下の耳に聞こえ続けた。まあどちらにしても俺は格好よくないからな…と思うだけで、溝下の興味は完全に消えていた。
THE END
世の中にはどうしようもない、うすら馬鹿と呼ばれる種族がいる。これは、一般の民族や国家などの範囲を超越して、広く世界に分布する人間の一族だ。国境を越え、世界各地に蔓延(はびこ)るこの手合いには、警察力がまったく役に立たない。犯罪にもならないから、取り締まりようがないのである。
「またかっ!」
朝から気分よく家の前の敷地内を掃(は)き清めていた岡野(おかの)均(ひとし)は、そう愚痴ると深い溜息(ためいき)を一つ吐(は)いた。最近では、捨てられたポイ捨てゴミを目にした日は、どうも気分がよくなかった。うすら馬鹿め! そのうち、ギャフンと言わせてやる…と、岡野は、うすら馬鹿防犯用の馬鹿捕り紙を家の前へ敷くことにした。捨てた途端、ハエ捕り紙よろしく、ベタベタと足下(あしもと)が粘りつき、蠅のようには死なないものの、やがては歩行に支障を起こす・・というシロモノだった。岡野は意気込んで、その馬鹿捕り紙の制作に取りかかった。
一週間が過ぎ去った。
「よしっ! よしよし…」
出来上った粘性の馬鹿捕り紙を見ながら、岡野は意気込んで家表の敷地下に敷き終えた。
『フフフ…明日が楽しみだ…』
岡野は嘯(うそぶ)くと、ニヒルな笑みを浮かべた。まるで自分が尋常ではない天才科学者にでもなった気分の岡野だった。というのも、粘性物質の研究と紙質、紙への塗りつけには、かなり手が込んだからだった。
次の日の朝、うすら馬鹿がひっかかった痕跡(こんせき)が馬鹿捕り紙に残っていた。岡野は、ははは…やった! と喜ぶより、逆にその者が哀れで悲しく思えた。他に考えることはないのか…と思えたからだ。馬鹿捕り紙は、岡野を悲しく思わせる紙だった。
THE END
上坂(うえさか)友樹は完全に遊ばれていた。いや、こんなはずじゃなかった…と上坂は後悔していた。最初のやり始めは、ほんの片手間のつもりだったのだ。それが今では、ドップリとテレビゲームにハマっていた。最初、上坂は玩具(おもちゃ)のゲームで時間つぶしに遊んでやろう…と偉そうに思った。歴史好きの上坂は戦国ゲームを玩具屋で買った。ふん! こんなものは馴れりゃ簡単だ…とゲームをシゲシゲと見ながら思った。ところが、である。いっこうゲームに勝ちが見えなかった。関ヶ原で福島正則勢の騎兵として戦う上坂は、小西行長勢と果敢(かかん)に闘(たたか)っていた。だが結果は、プログラムのせいでもないのだろうが、やってもやっても勝てなかった。具合が悪いことには、このゲームには上坂を虜(とりこ)にする魔力が秘められているようだった。遊び半分でやり始めた上坂だったが、次第に本気になり、抜き差しならなくなっていった。要は、ゲームで遊ぶつもりが、ゲームに遊ばれ始めたのである。時間が大幅にゲームに費(つい)やされるようになった。このままではいかん…と、踠(もが)けば踠くほど、上坂は生活が乱れていった。
「お前、このごろ変だぞ…」
蒼白い顔に目だけ血走らせた上坂を見て、同じ課の永田は案じる顔で忠言した。
「いや、大丈夫だ…」
無精髭(ふせしょうひげ)に蒼白い顔は、誰の目にも大丈夫には見えなかった。
「上坂君。君ね、どこか悪くないか? 一日休んでいいから、病院で診てもらって、ゆっくり休養しなさい…」
数日後、見かねた課長の須磨は、とうとう上坂を課長席に呼び、休暇を与えた。
「お、俺はゲームに遊ばれてるんですっ! 課長、助けて下さいっ!」
上坂は絶叫していた。その声は課内の隅々(すみずみ)まで轟(とどろ)いた。全員の視線が上坂に注(そそ)がれた。上坂は人目も憚(はばか)らず、フロアへ膝(ひざ)まづくと、よよ・・と泣き崩れた。その片手には、いつ背広から取り出したのか、テレビゲーム機器のソフトが握られていた。
「ははは…簡単なことさ。忘れりゃいいんだよ、上坂君! 忘れなさい!」
須磨はポン! と上坂の肩を一つ叩(たた)き、薬言を与えた。
THE END
テレビが賑(にぎ)やかに唸(うな)っている。何をしても盛り上がらない堀崎沙希枝は、動くのを諦(あきら)め、ひとりアングリとした顔でテレビを観ながら煎餅を齧(かじ)っていた。もちろん、畳の上へ寝転がった姿勢で、である。これは誰が見ても、典型的なオバチャンが退屈している姿勢に思えた。沙希枝自身もそれは自覚しているのだが、取りたてて気には留めていなかった。旦那の堀崎は別に何も言わず、そんな沙希枝と日々、暮らしていた。沙希枝の内心は、私はまだ若いんだから…そうそう! 買い置きがなかったわね、煎餅(せんべい)を買ってこなくっちゃ…くらいの浮いた気分だった。
「堀崎さん、別にどこもお悪くありません。…あの、こんなことを言っちゃなんなんですがね。お悪くはないんですが、少しダイエットされた方がよかないですか? ははは…太った私が言うのも、なんなんですが」
体重が優(ゆう)に100㎏は超える・・と思える医者の皮平(かわひら)は、検診結果の書類を見ながら退屈そうに欠伸(あくび)をしながらニヤリと言った。沙希枝は、そうよっ! アンタには言われたくないわっ! と内心で怒れたが、さすがにそれは言えず、思うに留(とど)めた。
「はい! 少し、頑張りますわ」
沙希枝は一応、そう言って、愛想笑いした。
病院の帰り道、よくよく考えれば、もうそんな年なんだわ…と沙希枝は少し反省した。沙希枝は今年で五十路(いそじ)に入っていたのだった。退屈しのぎに寄ったス―パ―に美味そうなメロ[銀ムツ]の切り身パックがあった。いつもは4きれパックを買うのだが、2きれパックにした。ご飯が進んで、1きれで3膳以上、食べてしまうことは百も承知だったからだ。余ったお金で退屈しのぎに煎餅を4袋買った。いつもは2袋だった。退屈が沙希枝を太らせていたのだ。
THE END
土筆(つくし)新(あらた)は、今をときめく新進スリラー作家だった。彼のスリラー小説はサスペンスとは一線を画し、どこか不気味で身の毛がよだった。地球温暖化で涼を求める傾向が人々に強まったからでもないのだろうが、どういう訳か子供からお年寄りまでの幅広い世代に人気があった。土筆の筆致(ひっち)は卓越(たくえつ)していて、読む者を小説の中へ誘い込み、虜(とりこ)にした。そんな有能な土筆にも欠点が一つだけあった。彼は新作を思い描く中で、どんな場合でも「それは、ない…」と口走るのだった。自分が心に描いた構想を一端、自らが否定することで、新しい展開を構成しようという彼独自の手法だった。ただ、その口走りが自分の意志で制止できず、ところ構わず口走ってしまうことだった。普通の場合は、変な人だ? と思われる程度で済んだが、とんでもないケースに発展する場合もあった。
人混みの繁華街を歩いていた土筆に、突如として新しい小説の構想が一つ、閃(ひらめ)いた。当然、土筆は足を止め、反射的に口走っていた。
「それは、ない…」
その場の近くでは、偶然、易者が一人の客を占っていた。
「ちょっと、あんた! 私の見立てにケチをつけなさんな!」
土筆が驚いて声がする方向を見ると、易者と客が自分を見ているではないか。
「あっ! いやいや。オタクの話じゃないんです。すみません」
土筆は反射的に謝(あやま)り、頭をペコリと下げていた。
「また、この次にするよ…」
客は椅子を立つと、見料を置いて去った。土筆も歩き始めた。そのときだった。中途半端な見立て赤っ恥(ぱじ)をかかされた易者が叫んだ。
「ちょっと、そこのお方! 待ちなさい!」
土筆は立ち止り、振り向いた。
「見料はいりませんから、座りなさいっ! あるか、ないか、はっきりさせよじゃありませんかっ!」
易者は、少し興奮していた。土筆としては何のことか分からなかったが、易者が怒っているようだ…とは分かった。土筆は歩(ほ)を戻(もど)すと、易者の前へ置かれた椅子へ座った。
「あの…何がある、ないんでしょ?」
「嫌ですなぁ~。あんた。『それは、ない…』っていったでしょうが」
「ははは…それは私の口癖(くちぐせ)でして…」
「おかしな人だ、あんたは…。私は易者ですぞ!」
易者は呆(あき)れた。そのときまた一つ、土筆に小説の構想が湧いた。
「それは、ない…」
「何がないんですっ!」
土筆は易者を怒らせたことに気づき、思わず口を手で押さえた。
「いやいや、『それは、ない…』ということはないんですよ」
「ややこしいお人だ! もう、よろしいです」
易者は嫌な顔をしながら片手で土筆を追っ払う仕草をした。土筆は、すぐ立ち去った。それ以降、土筆はマスクをかけて、外をブラつくようになった。そして、今日もまた歩いていた。
「やあ、土筆さんじゃないですか! また、お願いしますよっ」
土筆の姿に気づいて懇願するように近づいてきたのは、出版社の編集記者だった。
「それは、ない…」
閃い(ひらめ)た編集者は訝(いぶか)しげに土筆の顔を見た。
「いやいやいや…それはない、ことはないんですよ、ははは…」
土筆は、笑って誤魔化(ごまか)した。
THE END
ここは、とある商社である。岩窪(いわくぼ)堅一と柔肌(やわはだ)餅雄は同じ課の双肩(そうけん)として腕を競っていた。仲が悪い訳ではなかったが、ある種のライバル感が課内に漂(ただよ)い、二人が見えない火花を散らす様子が時折り見られた。岩窪と柔肌の性格は、これも絵を描(えが)いたように相反(そうはん)していた。岩窪の発想は氷のように固く、柔肌はその逆で、水のように柔らかな発想だった。
「…弱ったたな。俺には分からんから、この一件は二人に任せるよ。ははは…早い者勝ちだ」
課長の油木(あぶらぎ)は課のエースの岩窪と柔肌に下駄を預けた。
次の日から、二人のやり方で相手会社との契約獲得競争が始まった。岩窪は過去のメリットを得たときの相手会社との契約データを集めて分析した。氷の発想である。片や柔肌は、相手会社が今後、何を目指しているかという未来の経営方針に関するあらゆるデ-タを集めて分析した。水の発想である。
二人の発想は相手会社を招(まね)いてのプレゼンテーションで激突した。とはいえ、それは表面上は見えない静かで熾烈(しれつ)な争いだった。
「なるほど…。お二人のプランニングは理解いたしました。持ち帰って検討いたします。ご返答は後日、電話にて…」
相手会社の執行役員達は納得しながら静かに席を立った。
数時間後、油木と執行役員の酒を飲み交わす姿が銀座の一流クラブで見られた。恒例(こうれい)になっている接待である。
「どうですかね? 感触は…」
油木は侍(はべ)る綺麗どころに酒を勧(すす)めさせながら、訊(き)くでなく訊(たず)ねた。
「まあ、五里霧中の話ですな、ははは…」
「なるほど! 霧ですか…。今のところ、どちらが?」
油木が訊ねたとき、別の執行役員が赤ら顔でポツリと漏らした。
「ははは…それは、あなた…霜と出るか雪と出るか、ですよ」
「霜と雪? …はあはあ、持ち帰ってみないと分からないと」
「そうそう。早朝、晴れるか降るかは、私らには…」
「ははは…生憎(あいにく)、両者とも霙(みぞれ)になることも、あるでしょうが」
また別の執行役員が口を開いた。油木は、痛いところを突かれ、苦笑した。岩窪と柔肌の氷と水の発想だけでは割り切れないウィスキーの水割りのような契約だった。
THE END
生物には寄生と共生がある。もちろん、どちらにも属さずに生きる生物もいる。だが、広い意味で、生物は単独では生きられない。目には見えない形で、他の生物の何らかの恩恵に浴して生きているのである。このことを忘れると、この男、池飼(いけがい)鮒夫(ふなお)のようなことになってしまう。
「はい! 時間1,500円を頂戴しとります…。はい! 追加料金は30分で500円ですが…はい! もちろん、道具レンタル料はサービスさせていただいております。はい! コミということで…はい! どうぞ、ご贔屓(ひいき)に。お待ち申しております」
朝から問い合わせの電話がかかってきて、応対した池飼は、ほっとして電話を切った。店の規模を少し大きくしてから、この手の電話が頻繁(ひんぱん)にかかるようになり池飼は少し疲れ気味だった。だが今日からは、新しい従業員を3名、雇(やと)ったから楽が出来る…と思えば疲れも取れた。事実、その日から池飼は楽になった。苦労してここまで店を大きくしたんだから、当然のことだ…と池飼は考えた。すべては俺の優(すぐ)れた経営力だ…とも思った。
五年が経ち、店は大いに繁盛していた。それにともない、利益も当然ながら増えた。
「あの…もう少し、頂戴できないですかね」
月極(つきぎめ)の給料日、一人の従業員が遠慮ぎみにそう言った。三人に給料袋と明細を渡したあとだった。明細には¥122,400の給料額が印字されていた。現金支払いに拘(こだわ)る池飼は、時代おくれながらキャッシュで紙幣と貨幣を袋渡ししていた。
「嫌なら、辞めてもらって結構だ!」
苦労人、池飼の上手(じょうず)の手から水が零(こぼ)れた。池飼の心は緩(ゆる)んでいた。自分の力を過信するようになっていたのだ。従業員など、また雇えばいい…と無意識で思った心が、そう言わせていた。
「そうですか…。それじゃ、今月いっぱいで。長い間、お世話になりました」
ペコリと頭を下げたのは一人だけではなかった。翌月、三人が辞めた池飼釣堀店は営業できなくなり、店を閉ざした。池飼と三人の従業員は共生関係だったのである。池飼は、すっかりそのことを忘れていた。
「よろしく、お願いします!」
「ああ、そんなには出せんが、まあ頑張ってくれ!」
「はいっ!」
半年後、池飼は辞めた三人が立ち上げた店で従業員として働いていた。
THE END
山岳写真家として世に知られた川平静一は、今朝も早くから後家岳(ごけだけ)の中腹で写真を撮っていた。ファインダーを覗(のぞ)くと、いつもより、どうも今一、ピントが甘く感じられた。川平はカメラ構えを一時、中断し、俺も年か…と、溜息(ためいき)をついた。ガス雲が下界から吹き上がってきて、たちまち考えたアングルの景観を閉ざしたとき、今回はこれまでか…と川平は思った。
下山してポジ・フィルムの各コマをスクリーンへ投射すると、これ! という重要写真のピントが何枚もボケていた。川平の眼は、カメラのファイダー枠(わく)を捉えていなかったのである。時まさに、女子W杯の真っただ中、テレビはその中継音をガナり立てていた。川平の眼は編集作業を見ているから、テレビは音を聴くのみだった。
「おしいっ! ボールだっ!!」
アナウンサーが興奮して叫んだ。思わず川平が画面を見ると、シュートした選手が枠を外(はず)したあとだった。川平は、キーパーに取られるのは仕方ないとして、最低限、枠には入れようや…と偉(えら)そうに思った。だが、そう思いながら見た川平の写真は、明らかにピント枠を外していた。川平はポジ写真を見たあと、テレビ画面のゴール枠をアングリした顔で眺(なが)めた。
「チェ!」
川平の口を衝(つ)いて出た言葉は、舌打ちだった。
THE END
ウサギとカメの話は童話や童謡でよく知られている。大学院名誉教授の徳山栄次郎は、ならばウサギとツルはどうなるのか? と書斎で真剣に考え込んでいた。最近、徳山は時折り、妄想に悩まされることがあった。別に体調の方は悪くなかったが、この日も、妻の富江とレストランで久々に食事をしたあと、どうもいけなくなっていた。タクシーを拾い、自宅に辿(たど)りついたまではよかったが、玄関へ上がった途端、完全にいけなくなってしまった。どういう風にいけなくなったのかといえば、次から次へと妄想が飛び出すのである。富江には適当に言って、先に寝てもらった。書斎へ入り椅子に座った途端、徳山の脳裡にウサギとカメが現れた。過去、数度、現れていたから、いかんいかん、また現れたか…と徳山は妄想を掻き消そうとした。だが結局、駄目だった。徳山は開き直り、ならば、じっくり付き合おうじゃないか! と大きく考えた。徳山は、カメではなくツルならどうなんだ…と妄想を広げた。しばらく真剣に考えるうちに、徳山自身、自分の妄想の広がりを止められなくなっていた。気づけば、徳山はウサギ、カメ、ツルに関する資料を書棚から選んでいた。もちろん、生物関係の文献である。徳山の書斎には、教授だけに、もの凄い数と種類の本が、所狭しと書棚に並んでいた。
「ほう…なるほど」
何が、なるほどなのか、自分で理解しないまま、徳山はそう呟(つぶや)いた。ウサギは哺乳類、カメは爬虫類、ツルは鳥類と出ていた。当然、誰が考えても三者三様だった。次に徳山は論理的に考えた。ウサギは油断してウッカリ眠ってしまった。ツルは飛ぶから当然、早い。ウサギ以上に油断する可能性があった。結局、ウサギは競争の途中で眠り、ツルは余裕で道草し、カメがやはり一番に着くだろう…と、徳永は結論づけた。その結論を忘れないよう軽くメモし、徳永は眠ることにした。ただ、書斎を出たときには夜も更け、11時過ぎになっていた。
次の日、朝起きたとき、徳永はすでに昨夜のことをすっかり忘れていた。メモしたことすら忘れていた。ただ、ツルとカメはお目出度(めでた)い・・という発想だけは心の片隅に残っていた。
THE END