今、日本の美しい「辞世の句」は海外からも注目されている。
日本の死生観に深く根差した習慣、「辞世の句」を紹介した本が海外で出版され、人気を集めている。
日本には昔から死の直前に辞世の句を一句詠むという習慣があります。
この世に別れを告げる際に歌で心をあらわすことは、現代に生きる我々からすると考えられないことであり、圧倒されることでもあります。
辞世の句、歌を残す文化を持っているのは、日本だけと言えるでしょう。ハラキリ(切腹)の方だけ有名になり、その時に彼らが書いた辞世の句、歌の方が忘れられていたのは片手落ちのように思われたのですが、ここにきて海外でもやっと理解できる時代になったと感じています。
波乱に満ちた人生を生き抜いた偉人が、この世を去る時に残した辞世の句。多くの困難に立ち向かった経験があるからこそ、その句や歌に奥深さを感じるのではないのでしょうか。
欧米人の辞世の句に対する感想です。
「幕末の本(英語版)を読んで驚くのは、死んでいった若い志士たちが辞世の句や歌を書き残していることです。ハラキリの前に平然かどうかわかりませんが、この世にさようならとばかり詩を書くのは、欧米人にはチョット想像できないことです。それに言ってみれば、革命の剣士のようなサムライが詩句を書く教養を持っていたことにも驚きを通り越して唖然としてしまいます」
さて、ここで誠に勝手ながら、私が好きな「細川ガラシャ」の辞世の句をご紹介します。
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
訳:花も人も散りどきを心得てこそ美しいものよ。
とても潔く強さを感じますね。この時、生き延びる事は出来たのに、足手まといに成らぬためと覚悟して死を選んだようです。たとえ散り時を心得ても、それを実行に移すことは容易ではありません。ガラシャさんのように、人間として気品を持って、少しでも潔くありたいものです。
細川ガラシャは言わずと知れた明智光秀の三女で細川忠興の正室です。かなりの美女でありかつ聡明な人物だったということでした。
本名は明智珠(あけち たま)だが、キリシタンとして有名で、洗礼を受けガラシャという洗礼名を与えられた。ガラシャはラテン語で恩寵や神の恵みという意味です。
父光秀が本能寺で織田信長を討ち(本能寺の変)、これにより逆臣の娘となりました。
夫の忠興が妻を愛していたため離縁する気になれず、1584年(天正12年)まで丹後国の味土野(現在の京都府京丹後市弥栄町)に幽閉されました。
しかし、1600年(慶長5年)関が原の戦いが勃発する直前、西軍の石田三成がガラシャを人質に取ろうとやって来ましたが、それを拒絶し、石田三成が実力行使に出た事を期に家老の小笠原秀清に槍で、部屋の外から胸を突かせて死んだのです。その後、遺体を残さぬよう屋敷を爆破し家臣達も自害したのでした。
その際に読んだのがこの辞世の句だったのです。彼女は気性が荒いという一面を持ちながらも、キリスト教に出会ってからは謙虚で穏やかになったということでした。この辞世の句には、人生の最期を美しく迎えたかったことを伺い知ることができるのです。
時代は大きく遡ります。これは理想の旅立ちである平安時代の有名な辞世の句です。
「願はくは 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ」― 西行
訳 :できることならば咲き乱れる満開の桜の下で、死にたいものだ。釈迦入滅の如月(二月)の望月(十五日・満月)の頃に。
西行は平安時代末期の武士・僧侶・歌人で、生前にこの歌を詠み、その歌のとおり、陰暦2月16日、釈尊涅槃の日に入寂したといわれています。享年73。
戦国時代の名高い武将の筆頭である織田信長の辞世の句をご紹介します。
「人間五十年 下天のうちをくらぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび生を受け 滅せぬ者のあるべきか」-織田信長
訳:「人間の一生は所詮50年にすきない。天上世界の時間の流れに比べたら、はかない夢や幻のようなものであり、命あるものはすべて滅びてしまうものだ」。
これは幸若舞(敦盛)の一節になります。これが信長の辞世の句として言い伝えられています。
「是非に及ばず」-織田信長
これは辞世の句ではありませんが、本能寺の変で、信長が遺した最後のこの言葉が、私は好きですね。これは信長公記に出てくる有名な言葉ですが、その意味は、一般的に明智の軍であれば、もはや逃れられない、死を覚悟した、「仕方がない」「致しかたない」とされています。
しかし、信長公記には、この言葉の後に、「透(すき)をあらせず、御殿で乗入り、面御堂の御番衆も御殿へ一手になられ候」と、迎撃体制を整えた状況が記載されているのです。
そして、信長が「女どもは苦しからず。急ぎ罷(まかり)り出でよ」と言って女性たちを逃したことも書かれています。
信長は、「是れは謀叛か、如何なる者の企てぞ」と言ったところ、側近の森蘭丸は、「明智が者と見え申し候」と言上すれば、「是非に及ばず」と信長は伝えたというのです。
信長は「なに、光秀の謀叛らしいと?! それが是か非か、本当かどうか、論ずる必要はない!それよりも即刻戦え!」という意味で森蘭丸に命じたのです。
もしかしたら、信長は、本能寺の変の時も、「世のため、人のため、日本のため」と、己の使命を果すため、最後まで必死で生き抜こうと思ったのではなかったでしょうか。
それでは武将の切腹を作法にまで高めた備中高松城の城主、清水宗治の辞世の句をご紹介します。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して」-清水宗治
訳:さあ浮世を離れ今こそ死後の世界に行くぞ 武士としての名を高松の苔のように永く遺しながら。
秀吉の水攻めにあって城は陥落寸前となり、城兵の助命と宗治の切腹を条件に降伏する。
宗治について特に有名なのが、この切腹のエピソードである。降伏後、宗治は水上に船を漕ぎ出し、舞を踊り、潔く腹を切り、介錯人に首を刎ねられた。
宗治以前、切腹は単なる自殺の手段のひとつであり、作法は確立していなかった。しかし宗治の切腹があまりに見事であったため、後にこの方法が正式な作法として流布したと言われている。宗治は武士の鑑であったと絶賛され、切腹が名誉ある死として定着したのです。享年46。
江戸の一大痛快事であった仇討ち事件の主人公、お二人の辞世の句をご紹介します。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん」- 浅野長矩(内匠頭)
江戸中期の大名・浅野長矩は私怨から江戸城本丸・松の廊下にて 吉良上野介義央を切りつけ、幕府から即日切腹の沙汰を受け果てた。 主君の恨みをはらすために大石内蔵助以下、家臣47名が吉良の首をあげた「忠臣蔵」は、この浅野長矩の無念から始まったのです。
「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」- 大石良雄(内蔵助)
赤穂浪士の頭目・大石内蔵助は、主君浅野内匠頭長矩の無念を晴らすと、同志45名とともに自首し、切腹の沙汰を受けた。刑死した有名人の辞世の句でもこれほどに爽快な思いがあふれるものは他にはない。無念を残す主君・浅野内匠頭との対比が鮮やかである。
以上、長々と辞世の句をご紹介しましたが、
明確な死生観を持っていた昔の人々、神仏を敬い、信仰に篤く、潔く生きた人々、
それがかつての日本人の生き方であったのです。
死ぬことを恐れず、生き恥をかくことを嫌い、強くも美しい生きざまを良しとした日本人の人生観とあの世とこの世を俯瞰した世界観から辞世の句は生まれたのではないのでしょうか。
波乱万丈の人生を生き抜いた偉人たちが遺した辞世の句には、人生のドラマが見えてくるのです。
---owari---
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