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生きる力を引き出す授業(上) ~ 伝説の国語教師・橋本武

2022年01月19日 | 日本
「一緒に『銀の匙(さじ)』を読んだ生徒がねえ、還暦過ぎても、みんな前を向いて歩いている。それが何よりも嬉しい。」

(「平常の力さえ出せれば、東大なんてへっちゃらだ」)
「伝説の国語教師」と呼ばれている人がいる。神戸の灘校で50年間も国語を教え、各界で活躍する多くの教え子たちが「橋本先生の国語授業があったからこそ、ここまで出来た」と感謝する。橋本先生がどのような授業をしたのかを見ていく前に、授業の成果を見てみよう。

灘中・灘高では一つの学年を各教科一人の先生が、卒業まで6年間担当する。昭和43(1968)年、橋本先生が独自の国語教育を始めて3回り目に担当した約200人の卒業生のうち、112人が現役で東大に合格した。浪人受験生を含めれば、この年132名と東大合格者数日本一になったのである。

その独自の授業とは、受験教育とはほど遠い。中学の3年間かけて、中勘助の『銀の匙(さじ)』という明治時代の児童小説を一冊だけ精読するというやり方である。

その中で、凧揚げのシーンが出てくれば、クラスの皆で凧を作って揚げる。百人一首の場面では、教室をグループに分けて、カルタとりに興ずる。駄菓子屋が登場すると、橋本先生が明治時代の駄菓子を捜し出してきて、皆で味わう。そんな横道にばかりそれていくので、薄い文庫本一冊を読み切るのに3年間かかる。

高校でも日本の古典をグループでじっくり研究する。そういう授業から「生きる力」を引き出された生徒たちは、「平常の力さえ出せれば、東大なんてへっちゃらだ」と言う。

(「フランスにはそんな昔の詩を語れる人間なんていないよ」)

卒業生の生き様を見てみよう。畑中邦夫さんはエンジニアを目指して東大工学部に入ったが、フランス文学・映画熱が昂(こう)じて、大学入学後、フランス政府の給費留学生に応募する。
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自分の場合、横道にそれていくことは海外に出て行くことだったんです。そして、海外に出てわかったことは、『重要なのは“何語を話せるか”より“何を話せるか”」ということ。流暢な外国語よりも、日本文化についてしっかり伝えられたほうが、相手もこちらの意見を尊重してくれるんです。言葉に厚みが出るんでしょうね。

中学1年生の時に『銀の匙』をみっちり勉強したことや、その後いくつかの古典を教えていただいたことなど、橋本先生に教えていただいた日本人的な教養や古典が大きな財産になりました。

たとえば、海外で、月のきれいな晩に、安倍仲麻呂の

“天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山にいでし月かも”

を歌って、「これは1200年以上前、中国に渡って二度と日本に帰ることができなかった留学生の歌だ」と、歌の背景を説明すると、“トレビアン! フランスにはそんな昔の詩を語れる人間なんていないよ!”と驚かれますからね。
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大学卒業後、海外経済協力基金でアフリカ諸国をまわった畑中は同窓会で橋本先生の「還暦からが第二の人生」という言葉に背中を押されて、いまルワンダの大使をしている。

(「スピードが大事なんじゃない」)
橋本先生の授業で目覚めた「生きる力」は、理科系でも発揮される。吉川健太郎は海外からのラジオ放送で「なぜ音声が周期的に波打つんだろう?」と疑問を抱いた。理科の先生に聞くと、電波が地球の電離層と地上の間を波打ってやってくることが原因だと知る。

そんなことから「通信」や「宇宙」に思いを馳せるようになり、卒業後は大阪大学工学部通信工学科に進み、伊藤忠に入社して、ケニアの大平原に通信網を張り巡らせるプロジェクトに従事した。

資金調達、材料入手、工事発注と、うち続く難問を一つづつクリアして、11年かけて、ケニア、ウガンダ、タンザニアにまたがる一大通信網を完成させた。

還暦を迎えた吉川健太郎はこう語る。
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『銀の匙』授業によって、我々は少年の知識欲とプライドをうまく刺激していただきました。そして橋本先生は成績で決して生徒を差別することがなかった。いつも広く大きく構えて、生徒のよい部分を見ようとしていました。・・・

で、あのとき、先生がおっしゃった『スピードが大事なんじゃない』という言葉を、今では自分なりに『先を急ぐより、物事の本質を掘り下げて、その根本原理、その背後にある理由を探求することが大事なんだ』と解釈して、今も、そう心がけているんですよ。ネバーギブアップ-さらば、道は開かれん! そんな感じです」
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二人の言葉からは、橋本先生の『銀の匙』授業から得た「生きる力」が、それぞれの豊穣な人生を切り拓いていった様が窺(うかが)われる。

(「これには、我ながらがく然としました」)
こうした卒業生の回想を読んだ橋本先生は、こんな感想をもらした。
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一緒に『銀の匙』を読んだ生徒がねえ、還暦過ぎても、みんな前を向いて歩いている。それが何よりも嬉しい。それを知ることができて、ほんとうによかったですわ。「結果」が出て、よかった--
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橋本先生の目指す「結果」とは、東大合格者数日本一などといった進学実績ではない。生徒の「生きる力」を引き出して、彼らが還暦過ぎても「前を向いて歩いている」事であった。

そう志したのは、戦争中、橋本先生がまだ若手の国語教師の頃だった。
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私が、読書を中心に据えた授業をしようと考えた理由は、何とか生徒の心に生涯残って、生きる糧となる授業がしたいという大きな願いがあったから。・・・

その際に、自分が中学時代に受けた国語の授業はどんなものだったろうかと思い起こしてみたのですが、先生に対する親しみの気持ちは湧いてはくるものの、どのような教材を使ったのか、どういった形で授業が進んだのか、といったことはまったく頭に浮かんできません。

思い出されるのは、「『徒然草』で描かれた仁和寺のお坊さんの話が面白かった」ただそれだけ。

これには、我ながらがく然としました。一所懸命教壇に立って教えているにもかかわらず、ひとたび生徒が卒業したらその心には何も残っていないとすれば、教師としてこんな虚(むな)しいことはないと・・・。
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(教科書を読まずに物語を読む授業こそ)
「だったらどうすればよいのか」と悩み続けた橋本先生の心に甦(よみがえ)ったのが、小学校3年生のときの国語の授業だった。担当の加藤先生は教科書など使わずに、真田幸村や猿飛佐助といった英雄豪傑が登場する講談本を読み聞かせてくれたが、これがすこぶる面白い。
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それで、自分でもっと知りたい、読んでみたいと思い、母親に「本買うて」としきりにねだるようになりました。つまり、この教科書を読まずに物語を読む授業こそが、私の読書人生の原点となったのです。

しかも、大人になってからもそういった講談本のストーリーはもとより、ちょっとマイナーな登場人物の塙団右衛門直之(ばん・だんえもん・なおゆき)なんていう名前もちゃんと覚えていました。

そこで、私もこのような物語を教材にして授業を行ったら、子どもたちの心にいつまでも残るのでは、そう思うようになったのです。
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橋本先生は決断した。教科書を捨て、その代わりに自分が乱読の過程で出会って魅了された『銀の匙』を教材として使おうと。

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『銀の匙』は前編53章、後編22章からなる中勘助(なかかんすけ)の自伝的小説です。その文章は、中勘助の先生にあたる大文豪・夏目漱石も絶賛したように散文調で美しく、なおかつ、新聞連載小説のため、章の長さが長からず短からず適当な長さで扱いやすいという特徴がありました。

また、内容的にも、江戸下町の風俗に代表される日本的な生活様式、あるいは「十干(じゅっかん)十二支(じゅうにし)」「節句」といった古くからの風習がそこかしこに登場します。

ですから、『銀の匙』を読み込んでいけば、いろいろと幅広い知識が身に付きますし、また、知識が増えていくという面白さを通じて、国語という教科に対する生徒の興味をよりかきたてられると考えました。
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そして、橋本先生は、一章ごとに「銀の匙研究ノート」を作り、クラスで配布することとした。

そのノートには注意すべき語句の意味や、内容に関連する事項を参考として解説し、さらに「その章が何について書かれているのか、自分で章のタイトルをつけてみよう」、「注意すべき語句を使って、短文を作って見よう」「文の書き表し方のうまいと思われる部分を書き写そう」などの設問を設けた。

(「大丈夫なんやろうか?」)
昭和25(1950)年4月、吉見良平は、灘中の入試説明会から自宅に戻った晩、国語の教科書として渡された1冊の薄い文庫本に戸惑っていた。見たことも聞いたこともない言葉が多く、中身が頭に入ってこない。

同じく、一本松幹雄も、文庫本のページをめくり、自分たちよりもずっと幼い主人公と、その家に住み込んでいる伯母さんとのやりとりが続く話だと知り、「なんか辛気くさいなあ」と思った。

最初の国語の授業。大量のプリントを抱えて、先生が現れた。これから3年間で、この薄い文庫本をずっと読んでいくという。そんな授業、聞いたことがない。「大丈夫なんやろうか?」と生徒どうしで顔を見合わせた。

授業は、こんな具合に進められた。たとえば「丑紅(うしべに)」という言葉に出くわすと、配られたプリントには、こう解説してある。

「丑紅-寒の丑の日に売る紅で、口中のあれを防ぐという」

普通なら、これで判ったこととして、先に進んでしまうが、橋本先生は、ここから横道に入っていく。

(一つの言葉の裏にある歴史・文化・社会・伝統の広がり)
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いま出てきた丑紅の「丑」という字は、古代中国の暦、「十二支」のひとつです。子・丑・寅・卯・辰・巳・午・羊・酉・申・亥という、動物の名前で表したんですね。ちなみに中国には「十干」という暦もあります。甲・乙・丙・丁・戊・・・。

十干と十二支、つまり「干支(えと)」を古代中国では広く応用して、歳時や方位方角、人の運勢判断にまで用いてきました。
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そこから横道はどんどん広がっていって、「甲子園球場」は大正13年「甲子(きのえね)」という十干十二支のそれぞれの最初の字が組み合わさった特にめでたい年に出来たことから、その名をつけたこと。「還暦」とは、十干十二支の60通りの組合せが一回りして生まれ年の干支に戻ること。さらに「草木も眠る丑三つ時」の時刻に用いられた例、等々。

生徒たちは、町中で見かける神社・お寺の名前や、料理店、駅の看板などに、十干十二支の文字を見つけ、それぞれが意味あるものとして見えるようになった。一つの言葉の裏には、歴史・文化・社会・伝統の豊かな広がりがあることが分かってきた。

(「自分で見つけたことは、君たちの一生の財産になります」)
ある日のこと、橋本先生がいつものように授業の始めにプリントを配っていると、級長が「先生!」と挙手しながら立ち上がった。「先生、このペースだと200ページ、終わらないんじゃないですか」

教室は静まりかえった。確かに4月から一ヶ月経っても、まだ文庫本のページは2枚しかめくられていなかった。

橋本先生はプリントを配る手を止め、級長の顔を見つめた。数秒の事だったろうが、その時間はとても長く感じられた。先生はゆっくり教壇に戻り、教室中の生徒を見渡した後で、つぶやくように言った。「スピードが大事なんじゃない」

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たとえば、急いで読み進めていったとして、君たちに何が残ると思いますか? なんにも残らない。・・・

すぐに役立つことは、すぐに役立たなくなります。そういうことを私は教えようとは思っていません。なんでもいい、少しでも興味をもったことから気持ちを起こしていって、どんどん自分で掘り下げて欲しい。私の授業では、君たちがそのヒントをみつけてくれればいい。

そうやって自分で見つけたことは、君たちの一生の財産になります。そのことは、いつかわかりますから、、、
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先生は、張り詰めた空気を和らげるように、にいっと笑うと、黙って再びプリントを配り始めた。
 (続く、文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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