我が国の「和の国」ぶりは、すでに神話の中で示されている。
(遠い神代につながる三種の神器の由来)
2019年5月1日午前10時30分、新帝陛下が皇位の証(あかし)として三種の神器を引き継がれる「剣璽(けんじ)等承継の儀」が執り行われた。
完全な沈黙の中で、三種の神器のうち草薙太刀(くさなぎのたち)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、および、国璽(国家の印章)と御璽(天皇の印章)が御前の白木の台に置かれ、その後、陛下の御退出と共に、それらも運び出される、という5分程度の簡素な儀式である。
勾玉を璽(じ)とも呼び、国璽・御璽を含めて、「剣璽等」と呼ばれる。三種の神器のもう一つは八咫鏡(やたのかがみ)だが、これは宮中三殿の賢所の御神体であるため、動かされない。
いずれにせよ、剣璽とも箱に収められ、布に包まれていて、天皇ですら、その中をご覧になる事ができない、という神秘的なものである。
三種の神器の由来を辿ると、それは我が国の遠い神代に繋がっていく。
まず八咫鏡と八尺瓊勾玉(数多くの勾玉を長い緒に貫き通した玉飾り)は、古事記によれば、天照大御神(あまてらすおおみかみ)が弟・速須佐之男命(はやすさのをのみこと)の乱行に責任を感じて天の岩屋に閉じこもってしまわれた際に、榊(さかき)にかけて大御神を引き出す際に使われた。
また、草薙大刀は高天原を追放された速須佐之男命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した際に尾から出てきたもので、天照大神に献上されたものである。
後に、天照大御神が皇孫・天津日高日子番能瓊瓊杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと、「天の高い所からにぎわしい恵みをゆきわたらせる日のみ子」)を葦原中国(あしはらのなかつくに)に下される時に、これら「三種の神器」を授けられたのである。
(三種の神器は「和の国」を作るための三大原則を示している)
そもそも大御神が葦原中国に皇孫を差し向けたのは、「道速振(ちはやぶ)る荒振(あらぶ)る国つ神等(ども)が多(あま)た居(あ)る」(勢いはげしく、荒ぶる国つ神たちが大勢いる)」状態なのを、何とか平和に治めたいとの願いからである。
田中英道・東北大学名誉教授の画期的な学説によれば、縄文時代には温暖な気候のもとで、日本列島の人口はほとんどが関東・東北に住んでいた。高天原とは当時の東日本に存在していた「日高見国(ひだかみこく)」であったとする。それが紀元前10世紀頃からの気候の寒冷化によって、人口が南下し、また大陸・半島からの難民・移民も増えて、西日本が不安定になった。
天孫降臨の目的とは、この不安定となった西日本に「和」をもたらす事であった。その際に大御神が与えた三種の神器は、どのように「和の国」を作るべきかが示されている。
まず、八咫鏡に関しては、大御神は次のように言われている。
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此の鏡は、専(もは)ら我が御魂と為(し)て、吾が前を拝(をろが)むが如く、いつき奉れ」(この鏡はひたすら私の御魂として、私を祭るように祭り仕えなさい)
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統治者は鏡に自分の心を映して、そこに和を希求する大御神の御心を継承しているか、私心で曇らされていないかを省みよ、との教えであろう。
第二の八尺瓊勾玉は、すべての人はこの玉飾りのように一つの命で結ばれている事を暗示し、その平等観、同胞感をもって民を大切にせよ、という事のようだ。
第三の草薙太刀は、八岐大蛇など、この世の和を乱す者と戦う勇気の象徴である。
三種の神器こそは、天照大神が地上において「和の国」を建てるために示された原則であり、それを継承して代々「和の国」を統治されてきたのが歴代天皇である、という事になる。
(「清明心」が「和の国」の基盤)
「和」との関連から、三種の神器の指し示す所を掘り下げてみよう。まず、鏡の象徴する「無私の心」。和を実現するには、一人ひとりが私心による心の曇りがないか、よく省みなければならない。
現代の我々も、例えば電車の中で目の前に杖をついたお年寄りが立っているのに席を譲らないでいたら、心が落ち着かない。そんな時、思い切って席を譲ったら、清々しい心持ちになる。
身を守る牙も爪もない人間は共同体を作って、互いに助け合うことで生き延びてきた。その過程で、共同体を保つための利他心を本能として発達させた。電車の中で席を譲ることで心が晴れ晴れとする、というのは、利他心という本能を満足させた快感なのである。
そういう人間心理を観察力豊かな我々の先祖はよく知っていて、利他心に満ちた心を「清明心(きよくあかき心)」と呼んで大切にした。それは共同体を築き、維持するための原動力である。鏡が象徴する清明心こそ、「和の国」を成り立たせる基盤なのだ。
後に聖徳太子が十七条憲法で「和を以(もっ)て貴(たふと)しと為」すとの理想を掲げられたが、それは単に「仲良くすることが大事だ」という次元の「お説教」ではない。「和」とは共同体の各人が「背私向公(私に背いて公に向かう)」、すなわち私心に「背い」て、「公」すなわち共同体のために心を向ける、という姿勢によって築かれるものだ、と説かれたのである。
この「背私向公」が、戦時中に唱えられた「滅私奉公」とは全く異なる点に留意したい。「和の国」は「私」のないロボットによって成り立つ全体主義社会ではない。「私心」は人間の性(さが)として滅ぼせないものだ。しかし、各自が鏡に映った自分の姿を見て「私に背いて公に向かう」処に、清明心が広がり、互いに信じ合い、助け合う「和の国」が成り立つのである。
(勾玉の示す平等感、同胞感)
第二の勾玉(まがたま)はおたまじゃくしのような不思議な形をしているが、それは胎児の形を模したものという説がある。たしかに、勾玉は胎児のレントゲン写真と区別がつかないほど、そっくりである。その勾玉が緒でつながっているということは、それぞれの命が、「神の分け命」であることを象徴しているようだ。
こういう生命観は、人間は男女や階級に関わらず、生まれながらに平等な同胞である、という人間観をもたらす。万葉集で天皇から農民、兵士に至るまで社会的地位や貧富に関係なく、真心の籠もった歌を集めているのは、こういう平等感、同胞感の表れだろう。「和の国」の民は、こういう平等感、同胞感で結ばれていなければならない。
ここで留意すべきは、同胞感といっても、同じ大和民族の中だけに留まらない点だ。たとえば、百済からの帰化人・王仁(わに、中国系という説も根強いが)の次の歌は『古今集』の仮名書きの序文で紹介されている。
難波津(なにはず)に咲くやこの花ふゆごもり今は春べと吹くやこの花
(難波津に吹く木の花よ。長い冬ごもりが終つて、さあ春が来たぞとばかりに、あのやうに盛んに咲く木の花よ)
この歌が「歌の父母のやうに」手習う人のはじめに習うべき教材とされている事からも、当時の人々の間では外国人という差別意識はなかったと思われる。
この歌は、仁徳天皇が即位前にその弟君と皇位を譲り合って3年間も経ってしまった際に、弟君の学問の師として呼ばれた王仁が、仁徳天皇に即位を勧められた歌であるという。王仁に私心があれば、自分が教えている弟君を推したであろうが、この歌には仁徳天皇に「さあ、ご即位なされよ」と呼びかけられた清々しい心が感じられる。
外国に生まれた人でも、清明心をもって公のために尽くそうとする人々は、同胞感をもって迎えられたのである。
――(後編に続く)
---owari---
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