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日本よ、「意」を取り戻せ

2018年01月09日 | 日本

前回、英語を使っていると知が劣化すると伝えたが、中国語では情が劣化すると思う。中国に情の世界がないとは言えないが、日本と同じようにあると思うのは間違いである。情に関するボキャブラリーが乏しいからで、言葉が少ないと実際もそれに影響される。

 

東京外国語大学名誉教授の岡田英弘氏は、それを「中国人は恋愛しない」と簡明直截に表現しておられる。古来「恋愛小説」がないからお手本がないと教えてくださった。恋愛は社会現象なのである。人情、風俗は世界中一緒だと思ってはいけない。文化の違いは人情にも影響する。

 

それから、今の日本語では「意」が劣化する。戦前の教育は、知、情、意、三拍子そろった人間をつくることだと言っていたが、いつの間にか戦後は知だけになった。知識とか偏差値とか、理性とか、そういうのだけになってしまった。このごろようやく、感性を磨けと言うようになったから、情も必要だと思われ始めたらしいが、しかし、まだ意が出てこない。

 

今の日本人に一番欠けているのは「意」である。

 

意というのは、意欲とか意志のことだが、かみくだいて言えば「よーし、やるぞ」「今日も頑張るぞ」「あんなやつに負けてたまるか」と、こういう気持ちがお腹から湧いてくる、ということである。

 

『内臓が生みだす心』(西原克成著)という面白い本があるが、それによれば意欲は内臓から湧いてくるのであって、頭をいくら磨いても意欲は湧いてこない。むしろ頭はブレーキか、ただの配電盤。処理するだけのコンピューターに過ぎない。人間として一番大事な「やる気」は、胃袋とか腸とか、肺、心臓から湧いてくるのだと書かれている。

 

それはともかく、日本人には意がない。外務省が今、何で悪口を言われるかというと、意がないからである。やる気がなくて、理屈ばかりを言っている。自分の仕事を減らすほうへ知の力を総動員している。しかしこれは外務省だけが悪いのではなく、振り返ってみれば日本中がそうなっている。

 

そして最近の日本語を使っていると意が消えてしまう。「やるぞ」などと言うのは野蛮とされる。自ら行動するのはヤバイのであって、賢い人は逃げるのがうまい。保険をかけて渋々ちょっぴりやるのが知的な人だと思われている(笑)。そういう日本語だらけに今はなっているが、この点の克服は追って述べたい。

 

意がない人の排除は、まず民間経済の世界から始まっている。リストラされる人や採用されない人にそれを感じる。やがて官界や学界にもこれが広がると思う。

 

---owari---

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