まず、第一に述べたいのは、「日本語一つで世界がわかる」ということ。こう言うと「それは英語ではないのですか?」と驚かれるが、むしろ英語では世界はわからない。少なくとも完全にはわからないのであって、なぜなら、英国の悪口は書いていない。「略奪の歴史」については書いていない。書いてあっても事実を捻じ曲げてある。そんなことを認めれば世界中から集中砲火で、どこにも住むところがなくなってしまうからである。
また、スペイン、オランダ、ドイツ、フランス、その他ライバルとなった国の文芸や思想や歴史的事実の紹介が公平でない。どのように歪曲されているかについての研究は、これから日本がするだろう。
それから、インドや中国については、苦心惨憺、努力して理解しようとしたことは認めるが、しかし日本人が書いているほうがもっと奥が深い。
しかも、世界で最高に翻訳が行き届いているのは日本語である。ギリシャ哲学から、ローマの思想家から、キリスト教から、インドのこと中国のことも、ありとあらゆるものが日本語に翻訳されている。イギリスの悪口もある。素晴らしいと思うのは、日本の悪口もたっぷり書いてある。こんな公平な言語は世界中にないのである。
しいて言えば、日本語で足らないのは最新の外国情報だろう。それが翻訳されるまではしばしわからない。しかし、最新情報を翻訳して売れれば儲かるとなれば、今の日本では誰かがすぐにやってしまう。その能力はあるし、買う側にお金もある。だから実際は困ることなどない。
英語を使っていると知が劣化するという人がいる。そういうと驚かれるが、個人の英語力の問題だけでなく、日本語にはあっても英語にはない単語やニュアンスがたくさんあるからである。アメリカ人に講演をするときに、通訳付きでも話がなかなか伝わらなくてくたびれると、多くの人が経験している。
というのは、やはり根本的に文明が違う、文化が違う、思想が違う、どうやら潜在意識のところまでも違うらしい。そのなかで、アメリカ人にわかることだけ言うとなると、ものすごく程度が下がってしまう(笑)。本当にそうなのであって、そうしないと話が進まない。
すると、我々はよほど賢いということになるが、実際ボキャブラリーは日本語のほうが良い。優れた表現がたくさんある。
同じことを日本国内で例を挙げれば、東京の標準語より方言のほうがよっぽど深いと思ったことがある。いわゆる微妙なニュアンスは、方言のほうが表現しやすい。東京語はまだまだ未発達と思った記憶があるが、同じことが英語でもある。
一例を挙げれば、ブッシュとゴアが大統領選挙で争って裁判所まで行くということがあった。しかし、そんなことをするのは民主主義の恥、アメリカの恥であって、「どちらか潔くしたらどうか」と思ったが、外務省の元アメリカ大使はアメリカには『潔く』という英語がないという。アドバイスしてあげたいが、してあげることができないと言うのです。
そこで日本語ができる外国人、あるいは日本の英語教授に「潔くという英語はありますか?」と聞くと、やはりみんな「ない」という返事だった。
上智大学の渡部昇一名誉教授(故人)が「マンリーという言葉が古い英語にある。それが近い」と言っておられた。ヨーロッパには「潔く」という感覚が少しあるのだろう。千年、二千年戦いを繰り返すと、そういう感覚が生まれてくる。
アメリカはまだ二百年しか歴史がないから、負けた者は負けた者。退場するだけであって、それを飾る言葉がない。言葉がないということは、概念がないということである。しかし、歴史の長い日本人にはそれがある。相手を立てる智恵もある。
いろいろ聞いてみると、「ダンディー」「マンリー」「フェア」といったいくつかの言葉を混ぜて、ようやく「潔く」に近くなる。
すると、たった一言で表現する言葉をもっている我々の精神生活のほうが深いと言えるだろう。
英語による思考は二分法になりやすい。白か黒である。もともと契約のために発達した言語だから仕方がないが、しかし、対象となる社会現象や自然現象は、たいていアナログなので困る。アナログをデジタルで表現すると、グレーゾーンを切り捨てることになる。洋裁で言えば、布地の裁ち屑がたくさん出るようなものである。
優れた表現ならば日本語のほうが上だということではないだろうか。
---owari---
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