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伊勢神宮を支えた千数百年(後編)

2020年02月14日 | 日本
(「たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮」)
信長、秀吉の頃には世情が安定して、交通も安全になり、庶民の神宮参拝が盛んになった。すでに平安中期の承平4(934)年の神嘗祭(かんなめさい)の日には「参宮人千万、貴賤を論ぜず」と伝えられていた。天正13(1585)年には、ヤソ会宣教師ルイス・フロイスが手紙にこう書いている。

「日本諸国から巡礼として天照大神のもと(神宮)に集まる者の多いことは、信じられない程で・・・・・、男も女も競って参宮する風習がある。伊勢に行かない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである」

この傾向は江戸時代に入ると、ますます強まり、毎年50万人前後の参拝者があった。さらに「おかげまいり」と言って、ほぼ60年周期で、爆発的な参拝ブームが巻き起こった。たとえば宝永2(1705)年には50日間に3百数十万人、文政13 (1830)年には、5ヶ月間で約5百万人もの老若男女が神宮に押しかけた。

元禄2(1689)年秋、奥の細道の旅を終えた芭蕉は、その足で伊勢に向かい、外宮の遷宮祭を奉拝して、こう詠んだ。

たふとさに 皆押しあひぬ 御遷宮

中世から近世にかけて神宮の「御師(おんし)」と呼ばれる祈祷師が毎年各地の檀家を回って「御祓大麻(おはらいたいま)」と称する守護札を領布した。江戸後期には日本全国の9割近い家が御祓大麻を受けていたという。

こうしたネットワークが基盤となって、全国からの伊勢神宮への参拝者には、道中の食料や宿泊が無料で提供されていた。

(民間の浄財による遷宮)
明治2年の遷宮は、幕末から準備が進められていたが、明治政府はそれを引き継ぐだけでなく、室町時代以来廃絶していた玉垣、板垣などの再興に努めた。以後、神宮は政府の保護を受けていたが、昭和20(1945)年、大東亜戦争の敗北により占領軍に「政教分離」政策を強要され、国として伊勢神宮に援助することができなくなった。

そこで、直ちに民間有志による全国的な募金活動が展開され、予定よりは4年遅れたが、昭和28年10月には650万人もの一般国民から5億円の浄財が集められ、無事に遷宮が行われた。50日間行われた奉祝祭には、2百数十万人もの参拝客が参加した。平成5年の第61回遷宮では、370億円もの寄付が集まった。

(「何か親しみやすいスカッとした建物ネー」)
新しい神殿の建設などは専門の宮大工の仕事だが、その準備の過程では、我々一般国民にも参加の機会がある。たとえば木曾山中で伐採された巨木を台車に乗せて、大勢の人間が長い綱で曳く「御木曳初(おきびきぞめ)式」という儀式がある。何万人もの人々がハッピ姿で元気な木遣(きやり)音頭に合わせて綱を引く光景は、にぎやかなお祭りそのものである。

また完成した正殿の周辺に白石を敷き詰める「御白石持(おしらいしもち)行事」もある。著者・所功教授が参加した昭和48年の御遷宮の祭には、約12万人もの人々がこの行事に応募して参加した。老いも若きも、童心を取り戻して、はしゃいだという。白石を持って完成したばかりの正殿の前に立つと、近くの若い女の子たちがこんな会話を交わしていた。

ワー大きい!とっても明るい感じネ。あの柱チョットさわってみたいワ。柔らかいお餅の肌みたい。マ、そんなこというたらバチあたるわヨ。でも、想像していたみたいなコワイ感じは全然しないワ。何か親しみやすいスカッとした建物ネー。ホント、日本人ってなかなかセンスいいわネ。

「ワー大きい! とっても明るい感じネ」とか、「何か親しみやすいスカッとした建物ネー」と言ってもバチは当たるまい。そう感じさせる伊勢神宮の簡素な清明さこそ、我々の祖先が千数百年にわたる遷宮を愚直に行って守り通してきたものだからである。それはおそらく、西行の「かたじけなさ」、芭蕉の「とふとさ」、そしてトインビーの「あらゆる宗教の根底をなす統一的なるもの」に通じているのである。

---owari---

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