あなたがたは適材適所という言葉を聞いたであろう。
適材適所ということは、
その人の器、その人の才能、
その人の能力に合った立場につけるということだ。
この適材適所という考えが、なかなかわからなく、
また、なかなか肯定しがたいことのように思われるかもしれない。
その多くは、欲望が強いがために、
自ら自身を正しく評価できないことにある。
人は、その器相応に使われてこそ、
はじめて喜びを得るのだという事実を知らなければならない。
鋸(のこぎり)には鋸の幸福がある。
鉋(かんな)には鉋の幸福がある。
鑿(のみ)には鑿の幸福がある。
それを忘れてはならない。
鋸は木を挽くのに役に立つであろう。
木を上手に挽くのは鋸の喜びであろう。
しかし、木を平らかにするのは鉋の喜びであろう。
また、木に溝をつけるのは鑿の喜びであろう。
この鋸と鉋と鑿という違ったものは、
それぞれが貴いのだ。
それぞれが貴く、どれもなくてはならないものなのだ。
なのに、世の人びとが鋸こそ素晴らしいと言えば、
誰も彼もが鋸になろうとする。
世の人びとが鉋こそ素晴らしいと言えば、
こぞってみんな鉋になろうとする。
しかし、世の中にはいろいろな人がいて、
それぞれの持ち場で働いているからこそ、
世の中がますますよくなってゆくのだ。
あなたがたは、ともすれば、
目立つ鋸という仕事を目標とするかもしれない。
しかし、鋸の役割ができるためには、大きな力がなければならない。
大胆で、決断力に富み、迅速で、
そして仕事が速くなくてはならないだろう。
そうした性格の人は、鋸の役割を担うのがよい。
しかし、一方では、几帳面でサービス精神に富み、
そして多くの方がたに気配りができるような人がいるであろう。
こうした方がたは、
鋸という役割は必ずしもその性分には合わないのだ。
そういう人びとは鉋としていかに艶を出すか、
いかに滑らかに仕上げるかということを努力すればよい。
それが本来の自己を生かす道であるのだ。
また、専門的にのみ生きている人もいるであろう。
狭く、細かく、しかし力強い仕事をしたいと願う人もいるであろう。
これは、鑿の仕事であろう。
小さなところを削り、彫り、そして役に立つ。
これが鑿の仕事だ。
こうした専門的な仕事を軽蔑する人もなかにはいるかもしれない。
あるいはそうした仕事についていて、
自ら自嘲的になっている人もいるかもしれない。
しかし、このような仕事はあるのだ。
鋸によってしては、ほぞをつくることは難しい。
鉋によっても、ほぞをつくることは難しい。
鑿によってこそ、ほぞをつくることができるのだ。
このように、
それぞれ適材適所ということがあることを忘れてはならない。
さすれば、ある者は社長となり、
より多くの困難、波風に遭うかもしれないが、
その社長業を、自らこなさなければ、
幸福でないと思うのは間違いかもしれない。
地位の上にある人、下にある人、
それはあくまでもこの世的なる序列であって、
それが真実の仏の序列ではない。
それぞれ、適材適所ということが実現されて
はじめてすべてのものがよくなってくるのだ。
決して、欲望の自由を満たすことが、素晴らしいことではないのだ。
みんなが社長になりたいからといって、
すべての人を社長にしていては、
その会社に働く人たちは、次つぎと失業して、
そして大いなる苦難をなめるであろう。
社長になるべき器があってこその社長であるのだ、
ということを知りなさい。
さすれば、自らの分相応に生きていることを決して悔いてはならない。
もちろん、経営する立場に立つ者は、
人事は公平にしなくてはならないであろう。
また、雇われる側にあっても、
公平な処遇をされることを願うことは正しいことであろう。
しかし、どうか私の語った鋸、鉋、鑿の例を思い出してほしい。
それぞれの持ち場に使われてこそ、役に立つのであり、
そして喜びがあるのだということだ。
間違った場所で使われて、真の喜びはないということなのだ。
このことを、よく知りまさい。
足ることを知るということは、決して消極的なることではない。
足ることを知るとは、己を知ることなり。
足ることを知るとは、己が力量を知ることなり。
足ることを知るとは、己が才能を知ることなり。
足ることを知るとは、己が生きる場を知ることなり。
己が生きる道を知ることなり。
己が死に場を見つけることなり。
これ、足ることを知るという。(仏法真理)
---owari---
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