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「和の国」日本の世界一 ~ 田中英道『日本史の中の世界一』から(後編)

2022年05月05日 | 日本
日本史の中には数々の世界一があるが、その多くは国民が志と力を合わせて成し遂げたものである。

(「百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて」)
多くの国民が喜んで国家的巨大事業に参画するというのは、仁徳天皇陵の築造においても見られたようだ。

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この「前方後円墳」と呼ばれる古墳は、全長が486メートル、円の部分は高さ34メートルもある。取り囲む二重の濠まで含めた総面積は34万5,480平方メートルであり、秦の始皇帝の底面積11万5,600平方メートルの三倍、エジプト最大のクフ王の大ピラミッドの底面積5万2,900平方メートルの六倍以上だ。大きさだけでなく、その全体の形態は中国にも朝鮮にも前例のない美しい形態である。
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ある試算によれば、これだけの土を更地に盛り上げるためには10トンのダンプカーで25万台分の運搬が必要であり、これを全て人力で行うためには延べ680万人が必要という。

仁徳天皇は「民のかまど」の逸話で日本書紀などに聖帝として描かれている。高台から国を望まれて、かまどから煙が見えないことから、民が不作で窮乏(きゅうぼう)しているのであろうと考えられ、税を免じた。宮殿の茅葦(かやぶき)屋根が破れても修理させず、風雨で衣服が濡れる有様だった。6年の後、ようやく天皇が宮殿修理の許可を出されると:

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百姓は、みずから進んで、老人を扶け、幼児を携えて、材料を運び、簣(こ)を背負って、昼夜を問わずに、力を尽くして競いつくった。従って、あまり日数がかからないで、宮室がことごとく完成した。そこでいまに至るまで、聖帝とたたえ申し上げるのである。
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仁徳天皇が崩御(ほうぎょ)された際も、多くの民が天皇の聖徳を偲(しの)んで、このような形で力を合わせて陵を造営したものと想像しうる。

(国民による国民のための詩集)
多くの国民が参加して偉業を成し遂げるというのは、巨大建造物に限らない。世界最古、最大の選詩集『万葉集』もその一つである。4,516首と言う規模で世界最大であり、かつ、7,8世紀の歌を集めている。

規模や古さだけではなく、万葉集が特徴的なのは天皇から庶民までほとんどあらゆる階層を含んでいることである。

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アメリカの文学史家、ドナルド・キーン氏は・・・天皇の国見の歌から、恋の歌、生活の歌まで、その題材の豊富なことは、詩集として世界でも稀なことであると述べている。

作者も宮廷の詩人だけでなく、防人(さきもり)の歌や東人の歌、農民、遊行女婦、乞食まで多様な階層の歌が選ばれているのである。いかに階層に対する偏見がないか、また平等な世界であったかがよくわかる。
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西洋やシナの詩集が専門歌人の作品を集めているのに対し、万葉集は、多くの国民がそれぞれの思いを詠んだ詩歌を集めた、まさに国民による国民のための詩集であった。この和歌の伝統は、現代の日本でも皇室を中心に中学生から老人まで数万の短歌を集める「歌会始め」に連なっている。

(国を挙げて取り組んだ教育水準の向上)
幅広い国民参加による世界レベルの偉業達成というパターンは近現代でも続いている。江戸時代の教育水準の高さはその一つである。

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トロイの遺跡発掘で有名なドイツの考古学者シュリーマン(1822~1890)は、トロイ発掘の六年前の1865年に旅行者として日本を訪れ、一カ月の間、江戸、横浜などに滞在しているが、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。

シナをも含めてアジアの他の国では女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と旅行記のなかで書いている。
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この世界一の教育水準は、日本各地に無数に設置された藩校、私塾、寺子屋によって達成された。藩校の最初は、元禄10(1697)年に米沢藩が設立した興譲館だが、その後、全国に広がり、幕末までに約260のすべての藩が、規模や形態の差はあれ、藩校を設置している。

私塾は寛文2(1662)年に、伊藤仁斎が京都に古義堂を開設して以来、様々な専門分野で広がり、幕末には全国で1500もあったといわれている。

寺子屋は農民や町民の子供たちにお坊さんや神主、町のご隠居や武士などが教えていた。幕末には全国で1万から1万5千もあった。現代日本の小学校数約2万に匹敵する規模の初等教育が行われていたことになる。

藩校を運営した各藩主から、私塾を経営した各分野の専門学者、さらには寺子屋で教えるご隠居さんまで、国民の各層がそれぞれに人づくりの志を持って取り組んだ結果が、世界一の教育水準なのである。

(「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」)
『日本史のなかの世界一』には、このほかにも「江戸時代、268年間の安寧(あんねい)」「日本の花火の豪華さ美しさ」「パーフエクト・ゲームとなった日本海海戦」「戦後日本、奇跡の復興と高度経済成長」「自然環境との調和、森林の保存の歴史」と、興味深い世界一が次々と紹介されていくが、これらも無数の国民が力を合わせて実現したものである。

その最後を飾るのが「世界最長の王朝、万世一系の天皇」で、皇室が2千年以上も続いてきたこと自体が世界史の奇跡なのだが、その陰にあって皇室を支えてきた無数の先人たちがいたことを忘れてはならない。

「和をもって尊しとす」とは、聖徳太子の17条憲法の第一条冒頭の一節だが、これは単に「仲良くしなさい」という意味ではない。第一条は、上下和睦して事を議論する時は、物事の道理が自ずから通うので、「何事か成らざらん(できない事などあろうか)」という強い信念で結ばれている。

世界の陸地面積の0.2%でしかない日本列島に住む、世界人口のわずか約1.7%の日本人が、これだけの世界一を成し遂げたことを見れば、人々の「和」によって「できない事などあろうか」と断言された太子の確信の正しさが史実として証明されている、と思えるのである。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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