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試練が心を強くする(前編・上)

2022年11月09日 | 人生
(人間の心のなかには「仏性」が宿っている)
「すべての人には仏性があり、人間は仏の子である」とお伝えしてきました。
この、「人間は仏の子であり、仏性を持った存在である」ということは、どういうことなのでしょうか。

禅宗(ぜんしゅう)のなかには、「座禅(ざぜん)をすれば仏になれる」という教えもありますが、それは、やや詐欺(さぎ)に近い考え方です。「坐(すわ)っていれば、その身そのままで仏になれる」と考えるのは、いくら何でも甘すぎます。「仏の坐る格好をまねるだけで自分も仏になれる」という教えは、やや度が過ぎています。それは、ある意味での唯物論です。

修行というものは、内容を伴わなければ、もちろん駄目なのですが、少なくとも、「人間には、仏と同じような性質を持つことが許されているのだ」ということです。

すなわち、「仏と同じようなことを考え、仏と同じようなことをする習慣を身につけ、努力していけば、仏のようになれる」という可能性が万人に開かれているのです。これが、「人間には仏性がある」ということの意味であり、また、「磨けば光が出る」ということでもあります。

人間は、本来、「等しく尊い性質」を持っているのです。人間の違いとは、磨き方の差によって光の出方が違っているだけのことです。あるいは、磨き具合にムラがあったり、表面に汚れがあったりするだけのことです。きちんと磨いていけば、仏と同じような光が出てくる可能性はあるのです。

もちろん、出てくる光は、その人の魂の傾向によって違うかもしれません。宝石の色が違うように、黄色い光もあれば、白い光もあり、赤い光や緑の光もあります。

また、光の“かたち”は、その人の持っているものによって違うかもしれません。例えば、教育者の光り方と芸術家の光り方は違うかもしれませんし、政治家の光り方も違うかもしれません。商売で成功する人の光り方も違うかもしれません。

その光り方は違うかもしれませんが、「誰もが、磨けば光る珠(たま)になる素質を持っている」という教えが、仏法の理論なのです。

そのような観点から見ると、やはり、「『心が折れた』といった表現を使う人は、自分自身を、あまりにも“か弱い存在”として捉(とら)えており、他者から同情を引くような状況にある」と言わざるをえません。

そういう人に対しては、「人間の本質は、もっと可能性を秘めた強いものである」と言う必要があります。

---owari---
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