理想の結婚は、強く念って実現する場合もあるでしょう。ただ、時期が来ていなければ実現しない場合もあります。
学生の場合は、今の年代で知り合える人の範囲に一定の限度があって、それ以上、広がりません。そういう意味で、自分の身近な人のあいだで見つけようとすると、そこに無理があるかもしれません。
たまたま網を投げて、そこに魚がいるかいないかということですが、やはり、魚を捕るためには、いろいろな川に行って投げてみないと、いない場合もあります。たまたま、いまの教室にいるかというと、いない場合もあるということです。
したがって、適当な時期が来るまで、「できれば、この相手」と思うのはよいかもしれませんが、縛ってしまわないことも大事でしょう。「適当な時期が来れば、そういう人が出てくるように」と思っていれば、出てくることもあるでしょう。
あの世からの縁もありますが、この世での縁もあります。あの世で縁がなくても、この世でできることもあります。
この世の環境によって、あの世の計画がずれることがあります。結婚して家庭生活をする予定であったのに、たとえば戦争や交通事故など、さまざまなことがあって、計画がずれることがあるのです。
あの世には、そういうときにどうするかという対策委員会があります。大国主命など、縁結びを仕事にしている霊人たちがいますが、大国主命の系統の人たちは、もう一度考えて、縁を結び直したりしています。現にそういう仕事があるのです。
理想の相手と結婚したいと思っていれば、そういう人たちの力を得て結ばれることもあります。たとえ縁をつくってこなかったとしても、結ばれることがあるのです。
ただし、原則としては、結婚相手は、あの世でだいたい約束はしてきています。
今世初めて地上に生まれたという、エイリアンのような人はそれほどいないので、たいていの人は、さまざまな地に幾転生しています。そして、国際的にいろいろな所を転生輪廻しているような人もいますが、普通の人は日本で何回も生まれていることが多いのです。
転生輪廻の周期は、平均的な魂でだいたい三百年ぐらいです。菩薩といわれるような高級霊になると、七、八百年ぐらいの周期で出てきます。如来になってくると、千何百年とか二千年とか、こういう大きな周期で出てきます。
このように何度も生まれ変わってきますが、その相手とは初めて結婚するということもあるのです。人類の歴史というものは、いま知られているような短いものではなく、もっともっとはるかに長いものなので、もちろん、いつも同じ人とばかり結婚しているわけではありません。何回も入れ替わっているわけです。
ただ、過去世のどこかにおいて縁があった人である可能性は非常に強いのです。パーセンテージで言うのは難しいかもしれませんが、おそらく九十九パーセントぐらい、何らかの縁があります。
夫婦としては初めてであっても、たとえば過去世で、きわめて仲のよい兄と妹、あるいは姉と弟であって、今世どうしても会いたいというので夫婦の約束をする場合もありますし、肉親ではなかったけれども深い深い人間的なきずながあったような人と、初めて夫婦になる場合もあります。
しかし、たいていの場合、九十数パーセントは、過去世のどこかの時点で伴侶であった人と一緒になることが多いように思います。
そこで、具体的な問題として、間違って、約束していない人と結婚した場合にどうなるかということですが、それは、あることはあるのです。どんぴしゃりとはいかないこともあります。
たとえば、数十年ほど前に太平洋戦争がありましたが、あのときには男性が大量に死んでしましました。そのために、女性が男性の何倍もいるというような事態になりました。では、若い女性はみな独身を通すことを計画して出てきていたかというと、そんなこともないのです。やはり、「できたら、この人」と思っていたのに、相手が戦争で死んでしまったとか、そういうことはたくさんあります。
そういう社会環境のなかで、もまれてしまうと、やはり自分の考えていた最良の相手と巡り会えない場合はあります。こういう場合にはどうなるかというと、それでも、過去世のどこかで多少は縁のあった人と引き付け合うことが非常に多いのです。
同時代に生まれ変わるときに、一人の人とだけ一緒に出るのではなく、やはり過去世で似たような時代に生きてきた人と集団で出ることがよくあります。
夫婦の縁というものも、「A さんとBさんが結婚するのがいちばんよい」というベストの組み合わせはあるのですが、やはり何段階かあって、予備はあるのです。「この人がだめな場合はこの人、この人を先に取られたらこの人」というように、みな二つ、三つぐらいの縁はいちおう予備として持っているのです。
最近は横取りされることが多いので、やはりストックは持っていますし、相手も、「もしかしたら」と思ってストックを持っています。両方とも持っているので、結び付けが非常に難しくなってきているのです。
ただ、アメリカなど、先進国における結婚問題の混乱などを見ると、やはり価値観の混乱という部分がずいぶんあるようです。品物か何かを買うような気持で異性を探している部分があり、そういう意味で、考え方に間違いがあります。やはり、縁というものを考える、仏教的、東洋的な考え方のなかには、人生の一つの真理というものがあるように思います。
アメリカなどでは、二人に一人ぐらいが離婚しています。こうなってくると、非常にややこしい関係になってきます。したがって、ほんとうの夫婦の約束というものもありますが、それ以外に、地上でいろいろな混乱が起き、本人の自由意思の段階で、間違った相手、あるいは考えていなかったような相手と結び付くことはあります。
人間の縁というものには、新しく出発する視点もあります。過去、幾転生あって、いろいろな人間関係ができてきていますが、今世で発生する縁生というものもあるのです。
友達などでも、今生で初めて知り合う友達ということもあるわけです。そして、その人と、来世でもう一回出たときには会わなくても、その次の次ぐらいで一緒になったり、仲よくなったりするようなこともあります。
このように、必ずしもいつもくり返しがあるわけではなくて、新たな体験、経験を得るために、まったく未知の者同士が出会うということもあるし、一定の範囲でそういう余地も残されているのです。その場合には、もちろん、その後どうなったかという、その人の一生の生き方の問題になるわけです。
あなたは、だれかと結婚したために、ほんとうはほかに結婚するべき女性がいたのに、その人と結婚できなかったかもしれませんが、そのおかげで、その女性はもっとよい男性と結婚していることもあります。したがって、約束した女性と結婚しなくても、それは罪とは言い切れないのです。何とも言えません。
原則としては何らかの縁生がありますが、新たに発生することもあります。その場合に、新たな縁生でも、両方が幸せになる生き方をしていけば、あなたの約束した伴侶が他のもっとよい人と結婚している可能性があることを考えると、罪をつくったかどうかは五分五分です。
そういう意味で、カルマとか縁とかいう考えもありますが、そういう運命論などあまり囚われるのも問題です。たまたま自分が出くわした人とは、縁があったと思って、よい人生を築いていくのがやはりベストだと思います。
それで挫折したとしても、人生には幾つか選択の道があるので、それをまた突き詰めていってください。「至るところに幸せの種はある」と考えていただいてけっこうだと思います。
---owari---
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