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「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

古典教育が国家を発展させるという逆説(後編)

2022年04月07日 | 日本
(外国語との格闘)
長崎に遊学した後、諭吉は大阪の緒方洪庵の適塾で本格的にオランダ語を修行する。
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・・・塾ではオランダ語の試験があり、徹底的に読む訓練をしていた。福沢自身も、読解をするという地味な勉強をひたすら何年も熱心に続けていたという。月に六回も試験があり、オランダ語を読む実力があるかないかが明確な基準ではかられ、順位がつけられる。

これは各人それぞれのテーマで研究し、レポートを出すといった種類の教室とは全く異なる。個性や主体性といった要素ではなく、外国語を読むための語学力がひたすら求められる。そうした修行を何年も積んだ結果、福沢には外国語の読解力が技として身についたのである。
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今日で言えば、英語の受験勉強を何年もみっちりやったのである。外国語の文法と格闘し、ひたすら多くの単語を暗記する。それは春秋左氏伝を繰り返し読むのと同様に、「思考の持久力」を鍛え、学問をする喜びを深めたであろう。

諭吉は、こうして得た外国語力と論理的思考力で西洋文明を咀嚼(そしゃく)し、漢文の力で得た自在な表現力をもって、「門閥制度は親の敵(かたき)でござる」「独立の気力なき者は、国を思うこと深切ならず」などの名文句を生み出し、明治日本の国民に向かうべき近代化の道を指し示した。

明治日本を導いた諭吉の創造力、問題解決能力は、何年にもわたる古典や外国語との格闘を通じて鍛えられて初めて得られたものである。それは小学生がプロ野球の選手になるまでに10年以上も体力作りと守備・打撃などの地道な練習が必要なのと同様である。

ちょっと目には面白そうなこんにゃく作りを1時間ほど議論して創造力や問題解決能力が育つと期待することは、小学生に自由にボール遊びをさせていたら、やがてプロの選手になれる、と期待するような思い違いではないか。

(松下村塾の「志の教育」)
齋藤氏は、文科省の狙うアクティブ・ラーニングはすでにわが国の歴史の中で優れた実践事例があることを指摘している。吉田松陰の松下村塾である。
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松下村塾には、学塾につきものの教卓がなかったといわれている。松陰は塾生たちの間を移動し、個人指導を行なっていた。明確な時間割もなく、来るメンバーや時間もばらばらで、教科書も塾生中心に選ばれたという状況の中では、おのずと指導は一斉ではなく個別的になる。

授業の課題の中には課業作文というものもあった。これは今でいうレポートであるが、テーマは塾生各人が選ぶことも多かったようだ。出されたレポートに松陰が丁寧なコメントをつけている。レポートのテーマは松陰が出題することもあった。現実の問題に対して、どのような解決策があるかを問うようなレポート課題も出している。
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たとえば、日米通商条約締結という当時の重大事をテーマとして、塾生がレポートを書き、皆で議論する。「これはまさにアクティブ・ラーニングであり、問題解決型の学習方法である」と、齋藤氏は喝破(かっぱ)する。

松陰が塾を指導したのはわずか2年半だったが、ここから育ったのが、維新の尖兵となった久坂玄瑞、高杉晋作、さらに近代国家建設の中心人物だった伊藤博文、山県有朋などである。松陰がこれだけの人物を生み出しえたのは、どうしてだろうか。齋藤氏は「磨いた学力で、何を考え、何を求めていくのか」、そういう「志の教育」こそが人間性の核であるとしている。

(「教育大国」に生まれた我々の責務)
こういう史実を辿っていけば、教育改革の方向も自ずから明らかとなる。小中学生の間は従来型の学校教育で、基礎学力をつけさせつつ「思考の持久力」を鍛え、それを通じて学問をする喜びを体験させる。高校、大学では、アクティブ・ラーニングを増やしつつ、現実の世の中の問題を主体的に考えさせる。

ただ、問題はそれに必要な教師が得られるか、という事である。松下村塾では、吉田松陰という無私の志に燃えた希有な人物がいたからこそ、優れた後進を鍛えることができた。松陰なきままにアクティブ・ラーニングという手法だけを真似しても、「鵜の真似をする烏」に終わるだろう。

齋藤氏も「現在の教員養成の場を知る者として、学習の場を質高く維持していく教師たちが恒常的に確保できると楽観的にいうことはできない」と語っている。

しかし、教育とは学校だけで行われるものではない。家庭や職場、塾、社会人の勉強会・交流会など、志のある人はいろいろな場で「志の教育」に取り組んでいる。

思えば、筆者も大学生から若手社会人の頃、吉田松陰の血脈に連なる小田村寅二郎・亜細亜大学名誉教授が率いられた公益社団法人(現在)「国民文化研究会」の輪読会や合宿教室で、まさに松下村塾と同様の教育を受けた。本講座も、その学恩を多少なりとも、お返ししようとしているだけである。

わが国は江戸時代から現在に至るまで、市井の多くの人々が様々な形で、次世代の人材育成に志してきた「教育大国」である。教育行政がこれだけふらついても、国家の大本が維持できているのも、このお陰だろう。

 齋藤氏の提言などで、今後の教育行政が少しでも真っ当なものになることを祈るが、我々国民はそれに頼らず、一人ひとりがやれる事をやっていく、というのが、この「教育大国」に生まれた我々の祖先と子孫に対する責務である。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

---owari---
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