心の表面で波立つ心というのは、実はこれは感情の部分です。
感情の部分を持って、心の実相としてはならないということです。
波立つ心というのは、感情の心である。
また、これは迷いの心であり表面の心であると言えます。
しかし、大半の人間というのは、この表面の心を持って、
自分の心と誤解し、錯覚していることが多いのです。
この誤解や錯覚を取り除いて、
本来の人間の心とは何かということを、悟らしめることが、
私は宗教の任務であろうと考えます。
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私たちの心は、玉ねぎ型に幾重もの層からなっている。
中心の部分には、実相世界へと通じ、
そして、さらには人霊を超えた世界に通じる核の部分があるのです。
潜在意識といわれる世界のなかにおいては、広大無辺な霊界とつながっていて、
共有意識、あるいは、共通意識というような、
全人類に共通している霊的想念の世界ともつながっているのです。
それはちょうど、
電話やテレビの世界と同じで、
あらゆる霊的存在と一瞬にして、つながるような世界です。
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人間は主として表面意識を頼りに生きていくわけですが、
この途中に、様々な心の曇りというものをつくっていきます。
そして、本来、百パーセントの自分の心の内、
表面意識のあたりだけが、ゴミやほこりをかぶりはじめ、
そして、潜在意識層との連絡も、次第しだいに途絶えがちになってきます。
専門的にはこの部分は、表面意識とはいわず、想念体と呼んでいます。
表面意識と潜在意識との中間部分にある想念体に曇りができてくると、
だんだんに、表面意識と潜在意識層とが隔離され、
仏の光が、心に射さなくなってきます。
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心の発見とは、
結局、本来の自己の発見である。
霊的なる自己像の発見です。
すなわち、二本の手があり、二本の足があり、
頭があり、胴体があるという、こうした肉体としての、自分の意識を離れて、
自分自身が極めて霊的なる存在であるということに気付くということなのです。
実は皆さんには、まだまだ、隠された力があるのです。
本当は凄い力が眠っているのですが、
まだ、その力の開発に成功していないだけです。
もし、人間を肉体に宿っているだけの有限の力しかないものだと考えて、
単に食べ物を食べて、それをガソリン代わりにして生きており、
脳、もしくは神経で判断して、生きているだけの存在だと思っていたら、
それ以上のものにはなれません。
しかし、人間は肉体を超えた偉大な世界のなかの存在である、
そして、偉大な可能性を持った精神的な部分のある存在なのだ、
と考えることができたならば、そこから、無限の可能性が拓かれてきます。
---owari---
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