このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

事例で見るとよく分かる「本能」と「喜怒哀楽の感情」(前編)

2020年05月04日 | 人生
(赤ちゃんの「喜怒哀楽(きどあいらく)」を見るとよく分かること)
前回に、「快・不快の原則」があるということを言いましたけれども、本能に基づく「快・不快の原則」を、もう少し違ったかたちで言うならば、「喜怒哀楽」という言葉になります。「喜び」や「怒り」、「悲しみ」という意味での哀、そして、「楽しみ」です。

人は、成長するにつれて、まず、この喜怒哀楽というものを感じるようになってくるのです。
例えば、赤ちゃんであれば、ハイハイができたり歩けたりすると、うれしいでしょう。自己実現ができて、うれしいと思います。

しかし、障害物が出てくることがあります。ドアが閉まっていて開かなかったら、進みたいと思うのに進めません。そうなると、泣いて人を呼ぶようなことになります。ハイハイができず、立っても歩けないということになると、進めないので人を呼ぶでしょう。

自分が不愉快(ふゆかい)で苦痛なので、悲しくなったり、怒ってみたりするわけです。そのように、喜怒哀楽の「怒」や「哀」が出てきます。

ところが、自由に走ってもよい廊下(ろうか)が長く続いていたら、走って行ったり来たりしてもよいし、這(は)ったりしてもよいので、それが喜びや楽しみになることもあります。

そうかと思えば、その廊下の隣(となり)の部屋で、勉強したり仕事をしたりしている大人がいると、今度は、大人にとっての苦痛や怒りの原因にもなります。

そのため、大人の側から、「うるさい」とか、「静かにしなさい」とか、「廊下は走るものではない」「ここは、声を立ててふざけ回るようなところではない」といったようなこと言われることになります。

そうなると、今度は、赤ちゃんや小さな子供のほうが、「ああ、大人というのは、ずいぶん、自由を制限してくるものだな」と感じ、大人というものが、若干、窮屈(きゅうくつ)で不愉快なものに見えることもあると思います。

この場合、もちろん、その大人のほうは、今、どういう仕事をしているか、どういう立場にあるか、何を職業にしているか、仕事時間中なのか、仕事がオフで暇(ひま)なときなのか、あるいは、その日が平日か休日かによっても、感じ方が変わってくるでしょう。

例えば、大人のほうも、くつろいでいるときや、友達とつまらない雑談などをしてワイワイ言ったり、ガヤガヤと談笑(だんしょう)したりしているときであれば、子供が廊下を走ろうが、ハイハイをしようが、特に気にもならないはずです。

ところが、ごく真剣に学問的な話をしているとか、仕事の話をしているとかいうことになると、そうした雑音や小さな泣き声、笑い声なども邪魔(じゃま)になるように感じる人もいるでしょう。

一方、子供のほうは、自由にしたいし、「自分は今、走り回りたい」と思うときがあるわけです。それは、「ご飯を食べた」、あるいは「ミルクは飲んだ」、そして、「おしめも替えてもらった。では、もう走り回ろうか」などと思っているような、ちょうどよいときです。

ところが、大人の側からすると、そうした子供の行動が望ましくない状態にある場合もあります。そのようなときには、両者の考えがぶつかるので、子供のほうは怒られたりします。そして、言うことをきかずに、「そんなことを、いちいち言ってくる大人のほうが悪い」と思ったりすることもあります。

そのように、「喜怒哀楽」といっても一律ではなく、その人の置かれた場所や時、それから、どういう人がいるかによって変わってきます。

これは社会のルールですが、そうしたものも学ばなくてはなりません。「今は大切なお客様が来ていて、親が相手をしている」というようなときであれば、当然ながら、子供は、「静かにしていなさい。おとなしくしていなさい」と言われるわけです。

しかし、子供は、最初はその意味が分からずに、「自分の自由を制限する大人の押しつけだ」「戒律(かいりつ)のようなものを勝手に言ってくる」などと思って反発します。

---owari---
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« あなたの心に最初に出てくる... | トップ | 事例で見るとよく分かる「本... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

人生」カテゴリの最新記事