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あなたの心に最初に出てくる「本能」を分析(後編)

2020年05月03日 | 人生
(「自分の快・不快」と「他人の快・不快」との調和)
自分が快く思っているもののほうへ行き、嫌(いや)なものは避けようとする気持ちが、今度はほかの「ものの考え方」や、自分が思ってもみないようなルールとのぶつかり合いを生むことになってきます。

例えば、信号機や横断歩道のない道路で、歩行者の誰もが「向こう側に渡りたい」という気持ちを持っているとします。その場合、いちばん短距離になるように直角に渡ろうとするでしょう。

ところが、現代であれば、車が走っているので、本能のままに渡りたいと思っても、いきなり車が走ってきて轢(ひ)かれて死ぬということになったら、非常に不本意です。それは、自分にとっては不本意なのですが、現実には、車を運転している人のほうは、「できるだけまっすぐに速く走りたい」と思っているわけですから、人が前方を横切り、ブレーキを踏んで車を止めなければいけなくなるのは、非常に不愉快なことであるわけです。

ですから、歩行者にとっては、まっすぐに、いちばん短距離で道路を渡ることが、「快・不快の原則」から見れば快いのですが、逆に、車を運転している人の側から見れば、できるだけ速い速度でまっすぐに走りたいのに、道路を横切る人が出てくるのは非常に不快なことです。

それも、一人だけならともかく、次から次へと、バラバラバラバラと渡ってこられたら、いったいいつになったら走れるのかが分からなくなり、車を運転している人の不快感はどんどん増していくことになります。

そこで、「その調和を図る」ことが必要になってくるわけです。その結果、横断歩道というものができ、交通信号というものができてくるのです。

道路を渡ろうとする人は、「道路はずーっとあるのに、なぜ、白いペンキで横線を引いたところだけを渡らなければいけないのか。ほかにも渡れるところはたくさんあるじゃないか。自分は、今ここで渡りたいのに、なぜ、あと百メートルも歩いてから横断歩道を渡らなければいけないのか」と、おそらく不快に思うことでしょう。

しかし、先ほど述べたように、道路では車が次から次へと走っていますが、いろいろなところでバラバラバラバラと歩行者に道路を渡られたら、やはり走れなくなってきます。そうなると、車そのものが機能しなくなってくるわけです。

(「ルール」と「原則」が生まれるとき)
そのため、横断歩道をつくるのは面倒(めんどう)なことではありますが、横断歩道をつくり、そこに信号をつくって、赤・黄・青という色分けがなされます。運転手の側から見れば、赤の場合は「止まれ」ということですし、黄色の場合は、「歩行者が渡るかもしれないから、徐行するなど、用心をしなさい」ということですし、青の場合は、「道路をそのまま走ってもよい」ということになります。

逆に、横断歩道を渡るほうの人間からすると、信号を見て青だったら、「渡っていいんだな」と思いますし、黄色だったら、「ああ、そろそろ車が来る可能性があるから、気をつけなければいけないな」と思いますし、赤がついていたら、「これは車が優先だから、渡るのはやめなければいけない」ということになります。

これが、いちおう原則です。
ただ、田舎道(いなかみち)のような、交通量が多くないところで、「車など一台も走っていないじゃないか」と思ったら、横断歩道を渡るなどということを守るのは面倒くさくなり、周りを見て自分で判断して動くようになりますし、車のほうも車のほうで、「人なんか誰もいないじゃないか」と思えば、そのまま走ることもあるでしょう。

(「ルール」と「原則」に、変化や例外が生じるとき)
いちおう、こうした「交通の原則」はあるわけですが、私がアメリカのニューヨークに行ったときに、驚(おどろ)いたことがあります。信号機のなかに、「人が歩く姿」と「止まれ」という絵が描いてあるのですが、歩行者にとっては赤でも、平気で渡っていく人がたくさんいたので、少しショックを受けました。それは、「自己リスクで判断せよ」ということなのでしょう。

先ほど述べましたように、車が来ていなければ、待つのは時間の損ですから、渡ってしまったほうがいいという考えもあるわけで、このあたりは、個人の意思の自由の領域があることはあるでしょう。

あるいは、車を運転する側も、警察官が近くにいるかいないかによって、運転の仕方はおそらく変わるでしょう。「警察官はいないし、監視カメラもない」と思ったら、制限速度を超えて走ることもあれば、「監視カメラがある」と思ったら、制限速度を守ったり、「おまわりさんがいる」と思ったら用心して運転したりするようなこともあります。

そのように、「原則」はあっても、多少、本人の自由意思や例外が起きるようになります。
ただ、こうした自由意思や例外が生じるところにおいては、人間生活のなかでさまざまな混乱が起きてくるということです。

---owari---
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