(心が折れる人の特徴 ③――利己主義者)
「心が折れた」と言う人の特徴として、一番目に、「頭が固い」ということ、二番目に、「完全主義、完璧主義の傾向が非常に強い」ということを挙げました。
さらに、三番目の特徴として挙げられるのが、言葉はきついかもしれませんけれども、「利己主義者である」ということです。本人は、まったくそうは思っていないのですが、はっきり言って、利己主義者なのです。
こういう人の場合、「自分は利己主義者である」と気づいていないことが多いのです。「自分は、純粋にきれいな気持ちで生きている」と思っていて、いつも被害者の立場にいるつもりでいます。
彼らは、「経済や景気などの外部環境に害されている」とか、「会社の人間関係において、社長や上司など他者から害されている」とか、とにかく、今の自分の不幸や苦しみ、自分の仕事などがうまくいかない理由として、「他の人に原因がある」というような言い方をします。すなわち、自分のことを、いつも、「悲劇のヒロイン」や「悲劇のヒーロー」のように思っているケースが多いのです。
確かに、自分を悲劇のヒロインやヒーローのように思い、そういう悲劇性のある姿を美しい自己像と考えて、長い間、温めている人間にとっては、自分自身がそうした姿に見えているのかもしれません。
そのような人は、映画や小説などの創作、フィクションの世界では、美しく見えることもあるかもしれませんが、実社会においては、はっきり言って、エゴイストです。結局、自分のことしか考えていないのです。
そういう人に対しては、「ほかの人のことを、どう思っているのですか」と問いたいのです。
「あなたの気持ちは分かりました。あなたが傷ついたのは分かりました。しかし、ほかの人は、どうなのですか。あなたとかかわった人は、どうなったのでしょうか。ほかの人は傷つかなかったのですか。一生懸命、あなたを助けようとしたのに、何もできなかった人たちの気持ちを、考えたことがありますか。
あなたが『苦しい』『つらい』『助けてくれ』と言っているから、みな、いろいろな言葉をかけたのでしょう。いろいろとアドバイスをし、助けようとしたのでしょう。でも、それらの人たちの今までの努力は、全部、無駄になってきたことでしょう。今も無駄になっているはずです。
それなのに、あなたは『仕事がつらい』『精神的に苦しい』『未来が見えない』などと言って、自分のことばかり考えているでしょう。これはエゴイストです。
あなたは、そのことを分かっていないのではありませんか。エゴイストとは思わずに、自分のことを“いじめられているシンデレラ”のように思っているのではありませんか。
あなた自身の姿をよく見てください。足にはわら草履(ぞうり)を履(は)き、手には箒(ほうき)を持って、庭や室内を掃いているでしょう。それが、いじめられているシンデレラの姿なのです。ガラスの靴を履いて、『舞踏会に行かなくては』という感じではないでしょう。そこを誤解しているのではありませんか。
もし、あなたが、お姫様のような自己イメージを持っていて、勝手に傷ついているのであれば、それはあなた自身の問題ですよ」
このようなことを言わなければならないのです。
このエゴイズムないし利己主義というものは、意外に自分では分からないものです。そういう状態であることによって、実は、ほかの人の愛を奪っているわけですが、それが「奪う愛」であるとは思っていない人がいるのです。
そういう人は、「奪う」ということを、「物やお金を盗(と)るなどして、何らかの経済的利益を得たり、それに代わるようなものを、ほかの人から取り上げたりすることを言うのだ」と思っています。
しかし、「自分には、これが不足している。こんなにも不遇だ」などと言って、ほかの人に対し、同情を乞うたり、愛情を引きつけたり、自分の面倒を見させたりしようとすることは、実は、人の愛を奪っていることなのです。そのことに気づいていない人は、とても多いのです。
そして、そのような人たちは、よく「心が折れた」と言うわけですが、彼らは、「自分には利己主義的なところがある」ということに気づくべきです。ここが分からないかぎり、反省などできません。
自分のことを悲劇のヒーローやヒロインとして思い描いていたら、反省など不可能です。周りは“悪人”だらけになり、まさに“渡る世間は鬼ばかり”で、本当に鬼ばかりに見えるでしょう。
以上、「心が折れた」と言う人の特徴として、三点を述べました。
一番目は、「頭が固い」ということです。二番目は、「完全主義、完璧主義の考え方を取りすぎている」ということです。そして、三番目は、「意外と、エゴイスト、利己主義者である」ということです。
自分自身がエゴイストであることを認めないかぎり、反省は絶対にできません。「ほかの人に迷惑をかけてきた」という事実がまったく見えていなかったことを知り、「自分は人の愛を奪って人生を生きてきたのだ」と気づかないかぎり、反省などできないのです。
繰り返しますが、エゴイストは、ほかの人に迷惑をかけています。その人を支えるために、ほかの人は、いろいろいと手を尽くしているのです。それは、目に見える場合もあれば、目に見えない場合、気配りだけの場合もあります。エゴイストの“落ち穂拾い”をするように、その人のミスを補うために、一生懸命、努力してきているはずなのです。
しかし、当の本人には感謝がありません。なぜなら、エゴイストであるために自分のことしか考えていないのです。
そのような人に対しては、「少し今の自分の立場を離れ、自分のことを、一回、よく見てごらんなさい。ほかの人の立場に置き直して自分を見てごらんなさい」と言っておきたいと思います。
「どれだけ多くの人から、恩を受け、愛を受けて、現在の自分があるのか。そして、今もなお愛されているのか」ということを知らなければいけません。
そういう人が、いくら、「心が折れた」と喚(わめ)こうとも、残念ながら、ほかの人の知ったことではありません。“線香”など、「一束いくら」で買えるものであり、一本や二本、三本、四本、五本、十本、ニ十本と、何本折れようとも、代わりを立てることができるものなので、そういう人の話を、いちいち聞いていられないのです。それは同情を引いているだけです。
そういう人に対しては、「そんな柔(やわ)な心でどうする!」と一喝(いっかつ)しなければいけません。「人間の心」というものは、本来、そんな柔なものではないのです。
---owari---
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