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「疑問」と「不安」の思いについて(前編)

2022年02月25日 | 人生
(「疑問」には、「探究心」と「猜疑心(さいぎしん)」の両面がある)
「疑問自体がマイナスかどうか」というと、これには両面があると思うのです。疑問には両面があります。
よいほう、プラスのほうで生かすとすると、「探究心の強さ」になると思います。いろいろなことに対して素朴に疑問を感じるということは、そういうふうに感じる人ほど、素晴らしい才能を持っている可能性は高いのです。

そうした疑問を感じる能力がないと、例えば、科学者などにはなれないと思います。哲学者にもおそらくなれないでしょう。あるいは、神学者、宗教家にもなれないかもしれない。いろいろな人生の疑問に突き当たったときに、「探究していこう」という気持ちがあるからこそ、深いところまで行けるのです。

そういう意味における「疑問」というのは大事にしなければいけません。
ただ、「疑問」が悪く働く場合もあります。「これは疑問だ」と自分では思っているけれども、本当はそうではなくて、「猜疑心」になっているのです。疑問と猜疑心は、本人が自覚しなければどちらか分からない面があります。

「疑問」というものは、それが素直であれば極めて透明感の強いものです。ところが、「猜疑心」になると、「緑色の、蛇の目のようだ」とか、「猜疑心というのは緑色だ」とか、よく言われますけれども、そういうような感じが出てきます。

それは何かというと、疑問というものは魂の生地からストレートに出てきて、「なぜだろうか。知りたいな」という気持ちになるけれども、猜疑心は、いろいろと人から害された経験に基づいているのです。自分がそう思っているだけなのですが、人から害された経験が何度かあると、ほかの人を信じられなくなってくるのです。そして、また新しい人に出会うと「私を傷つけるのではないだろうか」と、いい話があると「落とし穴があるのではないか」と、そのように感じます。

あるいは、宗教でもそうです。一つのところへ行ってこりごりすると、違うものが出てきても、「またこれも同じではないか」「自分は被害者になるのではないか」と、こういうように思うわけです。

すなわち、単純に「疑問」と思えるものも、そのなかには、明らかに「猜疑心」といわれるものがあるのです。

(「素直な心」を取り戻し、「新しい出会い」を信じること)
猜疑心は、その人が過去、傷ついた経験、自分が害されたという経験に基づいています。ゆえに、猜疑心の根本は何であるかというと、これは疑問というより「懐疑(かいぎ)」です。「うーん、どうかなあ」という、ネガティブに否定的に見ていく思いがそこにあるわけです。

そこには、「他の人を生かす思い」がないし、「自分自身も積極的によくなっていこうという思い」がありません。“護(まも)ろう”としているだけです。「とにかく世の中は悪いのだから、とにかく保護しておいて、入れないようにしておけば済むんだ」という思いですね。これは発展的ではありませんし、どちらかといえば地獄に近い考え方だと思います。

疑問の内容を分けて、猜疑心に近いと思ったら、これは、やはり「素直さ」が足りないのです。疑問のなかでも「素直な疑問」というものはあります。ですから、「素直な気持ち」をもっと取り戻すことです。

それと、「新しい出会い」を信じることです。今まで自分は不幸であったかもしれないけれども、これからもそうであるとは限りません。しかし、本当にいい人が現れたとしても、猜疑心の目で見たらみんな悪く見えてきますから、通り過ぎていきます。結局、自分は不幸を愛しているということになります。

ですから、素直な心を取り戻すこと、それから、他人に対する評価をいったん白紙に戻すこと、もう一回、新しい感覚で受けようとすることです。

---owari---
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