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聖徳太子の大戦略(前編)

2021年06月20日 | 日本
聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何を感じ取ったのか?

(読めないところはホニャラと読みましょう)

 日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや。

齋藤先生は授業の冒頭でいきなり黒板にこう書いて言った。
「さあ、読んで下さい。読めないところはホニャラと読みましょう。」
小学校6年生の子供たちを先生は列ごとに指名して、順番に読ませていく。
ひのでるショのテンシ、ショを、ニチボツするショのテンシにいたす。ホニャラなきや。

わけのわからなさに笑いが起こる。初夏の風が通う教室は和やかな気分につつまれた。「学校で学びたい歴史」で紹介されている齋藤武夫先生の授業風景である。

「たいへんよく読めました。ほとんど正解と言っていいでしょう。それではふつうの読み方を教えましょう。」と言って先生は、こう読み上げた。
ひいづるところのテンシ、ショを、ひぼっするところのテンシにいたす、つつがなきや。
先生について、子供たちに後を続かせる。その後、子供たちだけで声をそろえて二度ほど読ませる。皆で一斉に読むので「斉読」と呼んでいる。

(誰が誰に出した手紙でしょう?)
これは、歴史上たいへん有名な手紙の書き出しです。ある意味で日本の歴史の中で最も重要な手紙だと言えるかも知れません。誰が誰に出した手紙でしょう?

先生の問いかけに、一人の生徒が答えた。
「聖徳太子からツツガナキヤさんに出した。」
すばらしい。聖徳太子は半分正解です。ですが、ツツガナキヤは人の名前ではありません。この手紙は、当時の女性天皇だった推古天皇の摂政、今で言えば総理大臣だった聖徳太子が書いて、推古天皇の名で、どこかの国のトップに出したものです。国書と言って、国から国へ出した手紙です。どこの国に出したのでしょう。
「中国だと思います」とすかさず、別の生徒が答える。

大正解。この国書は推古天皇から中国の皇帝にあてた手紙です。
出されたのは西暦607年、この国書を出すまでの100年ほどの間、日本は中国との直接のつきあいはありませんでした。中国はいくつかの国に分裂して争っていたからです。

ところが、ちょうど聖徳太子の頃、隋という大帝国が中国を統一します。聖徳太子は中国から進んだ文化を学ぼうとして、遣隋使という使いを中国に送りました。その代表が小野妹子(いもこ)です。「妹子」ですが、この人は男性ですよ。この国書は、小野妹子が隋の皇帝に渡したものです。

ここで齋藤先生は、もう一度、手紙の文章を皆で斉読させた。
漢文の歯切れの良いリズムが子供たちの体に心地よく響いてくる。それは聖徳太子の強い意志を伝えるかのようだ。

(皇帝はなぜ怒ったのか?)
さて、隋の宮殿に着いた小野妹子は、皇帝の煬帝(ようだい)に天皇からの国書を渡しました。皇帝は手紙を読み始めたとたん「このような野蛮国の無礼な手紙が来ても、これからは私に見せるな」と臣下に言いつけたそうです。

この手紙のどこかに皇帝を怒らせる言葉があったのですね。
それはどの言葉でしょう。

「なんとなくだけど、<つつがなきや>」と自信なさそうな答。
「つつがなきや」は意味が分からないからね。怪しいと思ったでしょう。でも残念でした。これは「お元気ですか?」という意味です。

別の生徒が答えた。「<日出づる処の天子>と<日没する処の天子>です。<日出づる>日本はこれから発展していく感じですが、中国は<日没する>でこれから夜になるみたいです。」

本当にそうですね。先生も子供の頃はそう教わりました。だから正解とします。でも、これについては単に東と西という意味で、皇帝もそんなに気にしなかったのではないか、というのが、最近の研究のようです。

実は皇帝がいちばん許せなかったのは「天子」という言葉なのです。なぜでしょう?
日本の天皇と中国の皇帝が同じえらさになってしまう。だから、そんなことぜったいに許せんって中国は怒ったんだと思いました。

「よく考えましたね」と齋藤先生は当時の「冊封(さくほう)」体制について説明を始める。中国の皇帝が一番偉くて、周りの国は皇帝の家来であり、中国に貢ぎ物をして、そのお返しに自分の国の「王」だと認めて貰う仕組みである。

(どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのか?)
いよいよ授業は、核心の問いに到達した。齋藤先生は言った。
聖徳太子は、どうして隋の皇帝を怒らせるようなことを書いたのでしょうか? 自分の考えをノートに書きなさい。

その授業でいちばんノーミソを使ってほしいところでは書かせるのがよい、というのが齋藤先生の流儀だ。生徒たちは一生懸命ノートに向かう。静かな教室に鉛筆の走る音だけが聞こえる。しばらくしてから挙手している生徒を指名して答えさせる。

これからは、中国と日本の関係を親分子分じゃなくて、日本は独立して中国と同じになる。
前は日本は中国に従っていたから、「邪馬台国」の邪とか、「卑弥呼」の卑しいとか、悪い字を使われていたじゃないですか。そういう関係はイヤだと思った。
言っている内容は似ているが、言い方にそれぞれの子供の個性が出る。

(そんなにうまくいくのか?)
「ちょっとみんなに言いたいんですけど」と一人の生徒が反論する。
国と国とが平等になって独立するのはいいんですけど、日本はこれから中国から文化とかを学んで発展したいんじゃないですか。それなのに、いま親分子分の関係をやめて中国から離れてしまったら、文化や技術をまなべなくなっちゃうんじゃないですか?

この反論から、生徒間の議論が始まった。
中国の下にいたら、何でも自由にはできない。それだったら、中国から学べないとしても、独立してやっていく方がいい。
中国から学んでも、国としては平等になろうということだから、中国にそれを認めてもらえれば、それはできると思います。
でも、実際には皇帝は怒っているんですよね。うまくいかないと思うんですけど。

一人の子供の反論から始まった議論で、子供たちは分かっていたつもりの風景を、反対側からも見るようになった。反論が出せる教室は素晴らしい、というのが齋藤先生の思いである。

(聖徳太子の読み)
みんなよく考えました。冊封体制から離れて、国として中国と対等の関係になるというのが、まさしく聖徳太子の考えです。
とくに最後の話し合いはたいへん重要です。たしかに、もしこの政策によって中国からまったく学べないことになったら、留学生を送れなくなって、聖徳太子の考えた日本の発展はなくなるかもしれません。

学べなくとも中国の子分でいるよりは独立を選ぶという意見がありましたが、実は聖徳太子にはある読みがあったらしいのです。ある理由があって、日本を独立させるにはこの計画はかならず成功するという確信がもてた。だから聖徳太子は決断したのです。その理由を説明しましょう。

隋は、朝鮮北部を領土とする高句麗との戦争にてこずっていた。その戦争を有利に運ぶために、隋は日本を味方にしておきたいはずだ、そういう聖徳太子の国際情勢の判断を、齋藤先生は地図を使って説明していく。遠くの国を味方にして、近くの国を攻める「遠交近攻策」という中国伝統の戦略についても説明する。子供たちから「すごいなあ」という嘆声がもれてきた。

最後に齋藤先生はこうまとめた。
中国(隋)を先生として尊敬しこれからも学んでいくが、国と国との関係は対等になりたい。中国との親分・子分関係をやめて、国としては中国と対等の関係にしたい。ズバリ言えば自立した国、独立した国になりたいと聖徳太子は考え、この国書でその考えを実行したのです。

---owari---
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