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小さな島国・ニッポンから、多数の「世界一」が誕生する歴史的背景(前編)

2018年09月16日 | 日本

今日は、無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』からの転載です。

メルマガの著者・伊勢雅臣さんがその謎に迫りつつ、先人が積み重ねてきた「努力」の歴史を振り返っています。

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ユーラシア大陸の片隅にある小さな島国・日本。そんな我が国から、たくさんの「世界一」が誕生するのはどこに理由があるのでしょうか。

 

「和の国」日本の世界一~田中英道『日本史の中の世界一』から

日本列島は世界の陸地面積のわずか0.2%、それもユーラシア大陸の片隅だ。そこに住んでいる日本人は世界人口の約1.7%に過ぎない。それなのに、なぜこんなに世界一が沢山あるのか。これが『日本史の中の世界一』を読んで、まず感じた疑問であった。

 

この本には世界最古の土器から戦後の高度成長まで、世界一と言える日本の事跡が50も紹介されている。それも単にそれらを並べただけではなく、美術史の世界的大家・田中英道・東北大学名誉教授が編集し、各分野での著名な専門家がその背景に至るまで具体的に説明しているので、それらを生み出した国柄に関する卓越した日本論となっている。

 

その国柄の一つとして、特に目立つのは、天才な個人が現れて世界一を作り出したというよりも(もちろんそのような事例もあるが)、多くの国民が参加してその力を寄せ集めてなし遂げた事例が非常に多い、ということである。

 

(式年遷宮というシステムの独創性)

たとえば伊勢の神宮の20年ごとの式年遷宮。各神殿が二つ並んだ敷地を持ち、ひとつの神殿が20年経って古びた頃、隣の敷地に全く新しい神殿が建てられて、神はそちらに遷られる。第一回の式年遷宮は持統天皇4690)年に行われたが、その時点では、世界最古の木造建築物として今も残る法隆寺は建立されていた。

 

そのような高度な建築技術を持っていたにもかかわらず、飛鳥時代の先人たちは、その「最先端」の技術を、伊勢神宮の建築には用いていない。

 

その代わりに、すぐに朽ち果てる弥生時代の倉庫さながらの神殿を、20年ごとに建て替えるという「神殿のリメイク・システム」を考案したのである。

 

このシステムにより、神宮は古びることなく、1,300年以上も後の現代においても真新しいままでいる。

この式年遷宮というシステムの独創性に、私は驚くほかない。しかし、そのシステムが、はるか1,300年の時を超え、21世紀の今日まで「生きている」ことは、さらなる驚きである。世界史上、このような信仰に基づく、このようなシステムが、このように長く続いている例は他にない。

 

さらに驚くべきは、この建て替えが内宮と外宮という二つの「正宮」だけでなく、14の別宮と、109の摂社、末社、所管社、すなわち合計125の神社すべてで行われる、ということである。しかも建物だけでなく、「御装束」(神様の衣服)や「御神宝」(お使いになる道具)も約800種、2,500点をすべて2千数百人の職人が長い歳月をかけて作り直す。

 

(無数の力がひとつになって成し遂げた「偉業」)

無数の多くの代々の国民が、力を合わせて続けてきた

御遷宮には1万本以上のヒノキが使われるが、それらは木曽地方などの神宮備林で育てられる。樹齢2300年の用材を大量に育てるための人々がおり、用材を切り出す際には神事が行われる。

 

切り出された用材は直径1メートル近く、長さ数メートルのものもある。それらを奉曳車に乗せて、長さ100500mの綱を2005,000名の曳き手が掛け声に従って引く「御木曳(おきびき)」という行事もある。

 

平成182006)年から翌年にかけて行われた第62回御遷宮の御木曳行事には一日神領民という希望者が約77,000人も参加した。筆者は沿道でその行事を見学したが、日本全国から集まった人々が、地域ごとに揃いの法被(はっぴ)を着て、いかにも楽しそうに掛け声に合わせて綱を引っ張っていた。

 

この第62回目御遷宮の総費用は550億円という。神宮を参拝した人々のお賽銭や、篤志家・企業などからの寄付、さらには全国の神社での神宮大麻(おふだ)の販売などによってまかなわれている。いわば国民の多くが御遷宮を支えているとも言えるのである。

 

このような大規模な御遷宮が過去1,300年以上、62回も続けられてきたという事は驚くべき事実である。御遷宮は「続いてきた」のではない。我が先人たち、それも無数の代々の国民が力を合わせて「続けてきた」のである。その努力こそ世界唯一というべきであろう。

 

(のべ260万余人が参加した奈良の大仏建立)

国民参加という点では、天平勝宝4752)年に完成した世界最大のブロンズ像・奈良の大仏も同様である。大仏建立を志された聖武天皇は詔(みことのり)を出されて、「生きとし生けるものがことごとく栄えることを望む」と語られた。しかし、単に国家権力をもって人民を使役したのでは、その志は果たせない。

 

ただ徒(いたずら)らに人々を苦労させることがあっては、この仕事の神聖な意義を感じることができなくなり、あるいはそしり(悪くいうこと)を生じて、かえって罪に陥ることを恐れる。…国・郡などの役人はこの造仏のために、人民の暮らしを侵(おか)し、乱したり、無理に物資を取りたてたりすることがあってはならぬ。

 

この詔は現実の政策によって実行された。造仏に従事した木工、仏師、銅工、鉄工などの技術者ばかりでなく、人夫、雑役夫などの雇人にも、賃金と食米が支給された。現場の重労働に従事する工人には、一日約8合の玄米が炊かれ、塩・味噌・醤油・酢・海藻・漬物・野菜・木の実等が副食として出された。

 

工事に従事した延べ人数は、金知識(鋳造関係の技術者)が372,075人、役夫(えきふ)が514,902人、材木知識が51,590人、役夫が1665,071人と合計260万余人。当時の日本の推定人口は約500万人だから、そのかなりの割合の国民が参加したわけである。

 

事業に参加する人々には賃金や食事を支給するばかりでは無い。聖武天皇は一人ひとりがこの事業の趣旨をよく理解し、それに主体的に参加することを期待された。詔にはこうも言われている。

もし更に人の一枝の草、一把(ひとにぎり)の土を持って、像を助け造らんことを情願(ねがう)あらば、恣(まま)にこれを許せ。

 

もし人民が寄進したいというのであれば、どんなにわずかの寄進でもよろこんで受けよう。わたしは国民とともにこの大事業をなしとげたいからだ。『日本の歴史文庫3 奈良の都』虎尾俊哉・著/講談社

 

大仏の建立に参加した一般人民は国家権力者に使役された奴隷だったと考えるのは過ちである。またこれらの人々がすべて賃金や食事目当てだった、と考えるのも表面的に見える。ちょうど現代の御遷宮に多くの国民がボランティア参加しているように、当時の人々は聖武天皇が国民全体の幸福を祈って発願された事業に参加できる誇りと喜びを感じていたのではないだろうか。

 

後編へ続く

 

---owari---

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