今回のシリーズは、武田信玄(第2弾)です。
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信長には攻撃性があって、目標がさだまるとその方向へと、無謀と思われるような果敢さでどんどん突き進んだ。信長の躍働するスピード感は、今や他の戦国大名とまったくちがう。
信長は尾張統一に八年、美濃攻略にも八年かけているが、それ以降の攻略スピードはきわめて早く、美濃攻略の翌年には早くも足利義昭を擬(ぎ)して上洛を果している。
信長の最大のライバル武田信玄は、当時扶桑(ふそう)最強といわれた武田騎馬軍団を擁し、常勝不敗といわれ、三方ケ原で織田・徳川連合軍を完膚(かんぷ)なきまでに粉砕しておきながら、ついに上洛をなしえず、信州駒場で無念の死を迎えざるをえなかった。
信玄は、その軍旗に孫子の兵法にある「風林火山」の四文字を、黒地に金泥で書きつけていたように、徹底して孫子をはじめ中国の兵法を学んだ武将である。
信長が直観力にすぐれ、自分なりの論理ですべての物事をすすめる天才であるとすれば、信玄は学びに学んだ秀才だった。
しかし、それだけに信長のように発想を飛躍させることができなかった。領地の拡大などその典型で、アナログ信号のように、ひたすら積み上げていくだけだった。そのぶん、要のスピードは遅い。
ともに天下の覇権を争った信長と信玄の両雄だが、ここに大きな分岐点があった。
(『疾風陣信長 変革者の戦略』作家・津本陽より抜粋)
---owari---
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