⑲今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、豊臣秀吉についてお伝えします。
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彼は羽織を脱ぎ、家康に着せたうえで、居流れる(居並ぶ)諸臣に告げた。
「いま皆の聞けるがどとく、家康の儂(わし)に鎧(よろい)を着せまじき覚悟のほどを聞きとりしだわ。思うてみれば、まことによき婿を取りしものよ。果報由々しき秀吉にてあらあず」
このときの二人の応酬は、羽柴秀長、浅野長政の仕組んだものであったが、たちまち諸国に流布した。
噂を聞いた者は皆、今後の秀吉の威勢はどのようになろうかと恐怖した。
「家康にしてこの言葉あらば、こののち秀吉の鋒先となって戦うに違いない。されば海内に楯突く者はあるまい」
秀吉は、家康に聚楽第の傍へ屋敷を授けることとした。
「旭が大政所の顔を見に参りたしと申すとき、あるいは有馬の湯に入らるるときに、館があらば都合よきことだでのん。こなたにて建ててつかわすだわ」
秀吉は宇喜多ほか二人の大名の屋敷を取りはらわせ、跡地に徳川屋敷を普請するよう奉行に命じた。
秀吉は家康の京都屋敷普請の大半を負担してやり、家康在京中の台所料として、江州(ごうしゅう:近江の国の異称)守山三万石を与えた。
ほかに家康の重臣酒井忠次に京都で宅地を与え、江州で采邑(さいゆう:領地)千石を授けた。
十一月五日、家康は羽柴秀長とともに正三位権大納言に叙せられた。
九日には家康の家臣 本多平八郎忠勝、榊原小平太康政が従五位下に叙せられた。忠勝は中務大輔、康政は式部大輔に任じた。
十一月十一日、家康と一万二千の供侍は尾州大高城に到着した。
三河在国の諸将は大高城下で迎え、無事の帰国を賀した。
「お殿さまご息災(そくさい)なるお姿を眼の辺りにいたし、祝着(しゅうちゃく)このうえもござりませぬ」
「京都にて異変おこらば、われらはただちに押し登り、屍の山を築く覚悟にてありしところ、尊顔を拝し、総身より力の抜けゆく思いにござりまする」
留守居の井伊直政、本多重次らは喜色をかくさず、家康の手をとらんばかりの喜びようであった。
家康も笑って答えた。
「いかさま、虎口より逃れし心地のいたすことよ」
彼は秀吉に仕掛けにかけられるおそれが充分にあるのを覚悟で上洛した。
彼は帰国の途上で、群雄割拠(ぐんゆうかっきょ)の時代はもはや過ぎ去ったと、くりかえし考えていた。
四方に強敵をひかえていた信長在世の頃は、対抗勢力の頭領を自らの勢力圏内におびき寄せれば、生きて帰さぬのが当然の苛烈な弱肉強食の法則が通用していた。
だが、いまはちがう。秀吉はあたらしい政治方針をつかんだと家康は知った。
彼は自分に抵抗する敵は攻めるが、降参すればたやすく許し、傘下に加える。
そうしても、謀叛(むほん)される懸念はない。秀吉政権の基盤は信長在世当時からわずか四年余りを経たのみで、はるかに強化されている。
一向一揆も膝下(しっか:ひざもと)にひれ伏し、刀狩り、検地の施策をうけても反抗の気勢をあらわさない。
聚楽第に参集する諸大名は、小柄な秀吉を魔王のようにおそれ、仰ぎ見ていた。
「儂(わし)が浜松にてすごせし月日のうちに、猿めは面変りいたしおっただわ」
家康の胸中に、天下をうかがう機を逸した悔恨(かいこん)の思いがたゆたっていた。
信長の臣下(しんか)に甘んじていた秀吉は、いま天下人として彼の頭上にいる。残念だが従うよりほかに保身の道はないと、家康は思いきめていた。
秀吉が家康との対戦を回避するために、あらゆる努力を惜しまなかったのは、徳川一門の軍事力を警戒したためであった。
彼は小牧長久手の合戦によって、徳川勢が危急存亡(ききゅうそんぼう)の瀬戸際に立ったとき、鉄の団結によって強敵に立ちむかう獰猛(どうもう:性質がわる強く、荒々しいこと)なまでの底力を知った。
下手(へた)に扱えば、荒れ狂う熊蜂のように手をつけられなくなる徳川軍団は、政治的におさえこむのに限る。
物量作戦によって圧倒しようとしても、捨て身の反撃を受ければ大損害を受け、秀吉政権の軍事力の弱点が露呈する結果となりかねない。
そうなれば、いったんは鎮静したかに見えている諸国の下剋上の機運にまたもや火がつき、収拾のつかない動乱がはじまる可能性もある。
秀吉が大政所(だいまんどころ)を人質にまでして、家康を上洛させた効果は大きかった。
(小説『夢のまた夢』作家・津本陽より抜粋)
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