⑬今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
――――――――――――――――――――――――
ところがその日から利家は寝こんでしまい、会議は年を越した。慶長四年正月七日、利家はようやく登城し、相役の大老である徳川家康をはじめ、中老(相談役)、五奉行の登城をもとめ、席上、この老人は無愛想なくらいの簡単な切り口上で、ずけりといった。
「上様のおおせ置かれたとおり、秀頼様を奉じ大坂までお供つかまつる。以後、ご本拠は大坂ということになろう」
と、それだけであった。
奉行の浅野長政がすすみ出、日はいつでござる、と聞くと、
「十日」
といった。みなそのあわただしさにおどろいた。あと三日しかないではないか。浅野長政は、それは早すぎる、われわれは支度もできぬ、というと、
「さればきょう陣触れの太鼓が鳴っても、弾正(長政)殿は支度がととのわぬと申されて人数を出されぬのか」
と、利家はいった。みな沈黙した。家康はにがい顔でだまっていた。
ところが意外なことがおこった。肝心の淀殿と秀頼が反対したのである。
「まだ寒い」
というのが理由であった。せめて四月か五月、温かくなるまで伏見に居たい、と淀殿はかたくなに言い張った。しかし淀殿といえども利家という頑固者にはむだだった。
「おのおのは」
と、利家はわざと淀殿のほうは見ず、大蔵卿ノ局らその老女団にむかい、たったひとこと、底ひびきのする声でいった。
「上様ご逝去なされてまだ五カ月というのに、はや御遺言にそむき奉(たてまつ)るおつもりか」
利家は、豊臣家の安泰をまもるみちは、秀吉の遺言を忠実にまもりぬく以外にない、と信じきっていた。語気にそれがあらわれていた。これには淀殿も沈黙せざるをえなかった。
三成がその夜、下城してきて家老島左近を茶室へさそった。すでに夜ふけであったために、茶はたてずに炉で酒をあたためて主従水入らずで飲んだ。
三成がきょうの殿中での利家老人の威厳のことを話すと、左近はひどく感銘し、
「さすが、加賀大納言は無駄には戦場を踏んでおられませぬな」
といった。三成はそういう左近をおかしがって、口もとをゆるめ、からかうように微笑した。左近が好きそうな話だ、とおもったのである。
「お笑いあそばされるな」
と、左近はにがい顔でいった。
「戦場で大軍を統率できるのは、ああいう仁のことでござる。ひとことで全軍が鎮まる。いまひとことで全軍が死地へ往く。加賀大納言はそういう呼吸を知りぬき、その呼吸をつかわれたまででごぎる。しかし」
と、左近はいった。
「そのひとことを持っておるか、おらぬかで将か将でないかがわかり申す」
(わしはどうだ)
という顔を三成はした。左近も無言で、さあ、というふうに首をかしげた。
左近は三成の逸話をさまざまにおもいだしている。
まだ秀吉が在世のころ、大坂付近に豪雨がふりつづき、ある夜、枚方方面で淀川の堤が決壊し、京橋口の堤防もあぶないという急報が、三成の御用部屋にもたらきれた。
三成はただ一騎で本丸から京橋口の城門にあらわれ、近在の百姓数百人をあつめ、放胆(ほうたん:きわめて大胆なこと)にも城の米蔵をひらかせ、
「この米俵を土俵にして堤防を補強せよ」
と命じた。
百姓もどぎもをぬかれて、たじろいだが、
「雨が去ったあとは分けて.とらせる」
と三成がいったためにわっとむらがり、うわさをきいて近郷からも人数がかけつけ、たちまち応急補強ができあがった。そのあと三成はその人数をつかい、数日かけて本物の土俵で、きずき直させ、約束どおりさきの米俵はことごとく労役の人数にあたえた。
左近はそのとき、あらためて三成という男の放胆と機転に舌をまいたが、しかしそれが三成の将器をあらわすものかどうか。
(すこしちがうな)
と左近はおもった。
利家老人にはそういう機智はないが、その人柄には例の一言の重みをそなえている。大将にはそれだけで十分で、その一言で数万の将士が躍動すればよいことであった。
(天下をとるまでの太閤には、さすがにそれがある。利家の一言のほかに、治部少輔(じぶのしょう)さまの機敏さ、機智がある)
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます