⑫今回のシリーズは、石田三成についてお伝えします。
三成は巨大な豊臣政権の実務を一手に担う、才気あふれる知的な武将です。
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余談だが、三成と島津家のつながりは、家康のばあいとくらべものにならぬほど古く、かつ深い。
秀吉の島津征伐のとき、いまの竜伯(法号)、そのころの島津義久はついに降伏に決し、頭を剃り墨染(すみぞめ)のころもを着、小童ひとりつれて山路を歩き、秀吉の本陣のある泰平寺の軍門にくだった。
秀吉はその降をゆるし、島津家が略取した九州諸地方の新領土はことごとくとりあげ、薩摩、大隅、日向のうちで五十五万九千五百三十三石だけは安堵させることにして、三成にその敗戦処分をまかせ、大坂へひきあげた。
三成はこのころ、数えて二十八歳である。
秀吉の退陣後、薩摩にのこり、秀吉の命令を的確に実行する一方、島津家のなり立つようにさまざまの温情をあたえた。
おかしな男であった。
「へいくわい(平壊。無遠慮の意)者」
と世間でいわれる一方、好ききらいが極端にはげしく、好きだとなるとぞっこん打ちこむのである。
かれは薩摩の人間風土と島津義久、義弘がよほど気に入ったらしく、
「事敗れて領土がせまくおなり遊ばしたが、それでも国が立つ法がござる。理財の道でござる」
と、それまで領土拡張のみが能であった薩摩人に対して、新鮮な思想を吹きこんだ。
それまで薩摩は薩摩領内だけの経済でしかなかったが、秀吉が天下をとって以来、それまで地方のみを天地にしてくらしてきた日本人が、天下を往来しはじめた。それにともない諸国の物資も日本的な規模のなかで動きだした。これは日本人が経験した、歴史はじまって以来の最初の体験であった。
そういう時代なのだ、と三成は島津義久、義弘におしえた。
「お国の米も、お国だけで使わず、どんどん大坂へ回送してその市場で売りさばけばよろしい」
と言い、その回送方法、販売方法、売りあげ代金の送金方法まで手をとるようにして教え、そのほか、あたらしい大名家の家計について三成は語り、「飯米、塩、みそ、薪炭、あぶらなどの台所用品は、小払い帳というものを作っておけば便利です」と言い、その帳の作成方法までおしえた。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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