㉒今回は「作家・津本陽さん」によるシリーズで、織田信長についてお伝えします。
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朝延には、旧制度を徹底して破壊してゆく信長に対する、不安感がわだかまっている。仏教から現世の権力を剥奪(はくだつ)した荒技への反感もある。
しかし、現在の信長の意向に、反対できる公家はいなかった。
信長が将軍任官を拒むのは、朝廷の官職から離れ、あらたな権力機構をうちたてるためかも知れなかったが、それは家来たちの想像の域をこえていた。
信長は勅使側のつよい要請によって、六日に女官たちと面会したが、任官を受ける意志表示はしなかった。
彼は夕刻に及び、琵琶湖に三艘の大船を出し、勅使を接待させて、そのまま大津へ送らせた。酒肴(しゅこう)の膳部をまえに、湖上の涼風に吹かれる勧修寺晴豊(公家)の胸に、信長への恐れがわだかまっている。
信長はその年の二月、暦の改正をいいだしていた。
暦は天子が制定するというのが、中国古来の思想である。日本でも古代から朝廷に陰陽寮を置き、陰陽頭が作暦をおこなってきた。
当時の陰陽頭には土御門家(つちみかどけ)が世襲で任命され、全国の陰陽師を従えていた。
同家のこしらえる京暦は、諸地方の暦の基準となっているが、天正年間には地方によって、京暦と異なる暦も多かった。
信長が京暦にかわらせようとしたのが、尾張美濃で用いられている三島暦であった。
三島暦は相模、下総から信濃東北部、越後にひろく用いられている。上杉景勝、真田昌幸、北条氏直らが、三島暦を使っていた。
京暦が宣明暦を基本とするのとは、別の暦法に拠ったものであろうが、三島暦には、天正十年十二月に閏月(うるうづき)があった。
京暦によれば、天正十一年一月に閏月を置くことになる。
土御門久脩(ひさなが)(陰陽師)は尾濃の暦師賀茂在政(かものあきまさ)と対決させられた。
信長は久脩に命じた。
「京暦を尾張の暦にあわせて、閏十二月を立つるがよからあず」
京都へ戻った久脩の報告を開いた朝廷諸官は、騒然となった。
天子が国の制度として定める暦の内容を、信長が変更するのは、大問題であった。朝廷の権威がこの一事で揺らぎかねない。
三月に入って信長が信濃、甲斐へ出陣したため、暦の論議は中断されているが、信長はかならずこの件をふたたび実現しようとするにちがいなかった。
天下を統一するためには、暦の統一をかならず実現せねばならない。だが信長が自ら暦の制定者になるのは、天皇の権威をないがしろにする行為といえた。
朝廷では、信長が将軍職を拝任しなければ、大政大臣、関白のいずれかに推す用意をもととのえていた。
天正十年二月二日に大政大臣に補任された近衛前久は、わずか三カ月の在任ののち、このとき辞官していた。信長のために席を空けたのである。
だが信長は、ついに官職に就く意志をあらわさなかった。
彼は勅使が安土を去ったのち、おなべの方にみじかい感懐(かんかい:感想)を洩らした。
「いまとなりては、遅きに過ぐるだわ。もはや位などは望まぬ。儂はのん、いまは何びとも思い及ばざることを、勘考いたしおるのだで」
「それは、いかなることにござりまするか」
おなべはたずねたが、信長は口辺(こうへん)にかすかな笑(え)まいのかげを浮かべたのみであった。
(『下天は夢か 1~4』作家・津本陽より抜粋)
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