自己確信とは、自分を過信し、うぬぼれることではありません。
「自分も、まんざら捨てたものではない」という、何とも言えない自信のことです。
苦しみや悲しみのさなかにあるとき、人間は自己否定的になって、「自分がいかに悪人であり、罪人であるか」といったことを悶々と考えます。しかし、もっとさばけた目で自分を見ることも大事です。
これまでの何十年かの人生を振り返ってみると、「あの点が悪い」「この点が悪い」と、いろいろあるでしょう。
しかし、「まんざらでもなかった」という思いもあるはずです。
それは「自分も仏に愛されていたのだ」という気持ちです。また、「自分も誰かのお役に立っていた」という確信でもあります。
自分というものは、小さな確信を積み重ねていくことによってできてくるのです。毎日、少しずつ、いろいろなことで自分を確信し、人のお役に立っている自分というものを見いだしていくことが大事です。それなくして、ほんとうの意味での自己確信はありません。
水面に浮かぶ水鳥には羽毛の表面に脂があり、それが水を弾いています。自己確信は、水鳥の羽毛が水を弾くときの脂の部分となります。つまり、「どのような不幸が訪れようとも、それが自分の心の奥底を害することがない」というようにするための脂になるのです。
結局は、「根本において仏を信じている」ということが大切なのです。
「仏が創られた世界ならば、悲しみと見えるものにも何らかの役割や意味があるはずだ。仏が私のことを徹底的に害そうなどと思っておられるはずがない」
「肉親の死によって、私は、いっそう強くなれるのではないか」
「友人が離反したことによって、私は、さらに素晴らしい人と出会えるのではないか」
「恋人と別れたといっても、やがて、私にもっとふさわしい人が出てくるのではないか」
このように考えてみることです。
大事なのは、流れていく時間のなかで、自分を大切にしながら力を蓄えていくことです。
もがき苦しみ、おぼれてしまうのではなく、自分を磨いていくのです。
その際に、最も肝心なのは、「仏への信仰」「仏への愛」です。
悩みの渦中にあるときには、「自分には仏への愛があるだろうか」ということを考えてみてください。たいていの人は自己愛の虜になっています。「こんなにかわいそうな自分」ということを一生懸命に考え、他人の同情を得たいと思うのに、誰からも同情の声が出ない――この点が問題なのです。
こうしたときは、背筋を伸ばして、大空を見上げてみてください。
悩みの渦中にある人、悪霊の虜になっている人は、たいてい、しゃがみ込んで、太陽に背を向け、自分の小さな影ばかり見つめているのです。それでは、いつまでたっても光は見えません。
すっくと立ち上がり、太陽に向かって大きく背伸びをすることです。これが「仏への愛」ということなのです。
小さな自分ばかり見つめないで、仏のほうを振り返り、感謝の気持ちを抱くことです。
「自分は、いかに大きな愛を与えられているか。不幸なように見えても、時間の流れのなかでは、それは大したことではなく、むしろ大きな向上への糧となっているのではないか」と考えてみるのです。
どのような試練が来ても、そこから教訓を学んでいく姿勢さえ忘れなければ、人間は立派になっていくしかないのです。
---owari---
*私の事情により、申し訳ありませんが、投稿のペースが下がります。
1週間に1~2回程度になると思いますが、ご了解ください。
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