1853年の黒船・ペリーの来航は、当時の日本を揺るがす大事件だったのですが、最初、浦賀に訪れたペリーの目的の一つに、日本地図の測量があったと言われています。
当時、食糧難の時代で、タンパク源供給をクジラに求めていたアメリカは、太平洋での捕鯨基地をどうしても確保しなければならない事情があったのです。
もちろん、ペリーにすれば、幕府が抵抗するようなら、武力行使も辞さないつもりでいただろうと思われます。事実、四隻の艦隊に砲撃艦も含まれていました。だが、この四隻のうち、砲撃艦は一隻だけで残りの三隻は全部測量艦だったのです。
このことから、ペリーは捕鯨基地として、江戸湾(東京湾)を測量し、日本地図を作ることも任務として持っていたことがわかるのです。
一方、幕府はそんなこととは知らず、ペリーを迎え撃つため、砲撃するためのお台場建設に着手するのです。
ペリーは、日本に来航するに当たり、事前にシーボルトの著作「日本」を手に入れていた。
「日本」には、日本のあらゆる文化、風俗、風土が記され、当時の日本を紹介した第一級の史料でした。そこには、当時日本人の手によって作られた日本地図も載っていたのです。
ペリーは、当時この日本地図をまったく信用していなかった。大体の概要程度のものと考えていたのである。しかし、実際に測量を始めると、その地図があまりにも正確なことを知り、日本人の文化水準の高さに驚いたのです。
ペリーは日本が恐るべき技術を持つ国だと知ると、ただちに測量を中止して、ひとまず琉球に引き上げたのです。
もしも、ペリーが江戸湾内での測量を続けていたら、幕府との砲撃戦は必至で、日本側は致命的な打撃を受けることになったでしょう。なにしろ、ペリー艦隊の大砲は品川沖から江戸城にまで届く威力があったといわれているからだ。
「一枚の日本地図」が日本を植民地化から救ったのです。その地図の作成者とは、皆さんご存知の伊能忠敬です。
下総佐原(現在の千葉県香取市)で酒造業を営む一人の商人の偉業だったのです。
たしかに、ペリー来航は日本の一大事であり、歴史の変革点だったことには違いがないでしょう。
日本の神々は苦心されたと思います。それで、一介の商人に白羽の矢を立てて、忠敬の心を動かし、忠敬は自分の使命を知り、56歳から72歳の生涯をかけて全国を測量し、1821年に地図は完成したのです。
そして、日本史上はじめて国土の正確な姿が明らかになったのです。ペリー来航の32年前です。
それほど早くに作る必要はなかったのではないかと思われるかもしれませんが、ことはそう単純ではないのです。この忠敬の作った日本地図(伊能図)は正確で、現代の地図と比較すると、本州の最も幅の広い能登半島の北端から静岡県御前崎の南端までの間で16メートル程度の誤差しかないというのです。これは一万分の一の縮尺率の地図でいうと0.16ミリの誤差しかないのです。
現代人にとっても驚きに値するのです。
この伊能図は幕府特命の門外不出の機密資料となります。
1828年ドイツの医師シーボルトは、この幕府禁制の伊能図を持ち出そうとした罪で国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けたのでした。いわゆる世にいう“シーボルト事件”が起こったのです。
ところが、苦しい取り調べうけたシーボルトでしたが、1830年に日本を追放されたのちに持ち帰った地理と地図に関する書類は160 種類にもなりました。シーボルトは一説には当時、内情探索官であったと言われておりました。
その書類の中には、蝦夷や樺太の地図と多くの日本各地の国絵図や、伊能図の写しも含まれており、帰国後シーボルトは、それらの地図などをもとに、「日本図」を初め「長崎湾の図」、「蝦夷地地図」、「朝鮮半島の地図」などのたくさんの地図を発行しました。
特にシーボルトの代表作である、「日本」という本の中で、伊能忠敬と間宮林蔵の地図が正確であるあること、林蔵が、間宮の瀬戸(間宮海峡のこと)を発見したことを、紹介しています。
また、この本に紹介された「日本全図(伊能図)」から、伊能忠敬らの測量技術と日本地図の正確さが世界中に認められたのでした。
このシーボルトの書いた「日本」の書物をペリーが見ることになったというわけですが、紆余曲折があり伊能図ができてからペリー来航までの32年間は必要な時間であったというわけです。
その間、日本の神々はやきもきされたこともあったのではないかと思いますが、伊能図が日本の植民地化を防いだということを、伊能忠敬の業績を日本人はもっともっと評価してよいのではないでしょうか。
---owari---
ご指摘の通りまったくの誤字です。ご連絡いただき有難うございました。
これからもご愛読、ご指摘よろしくお願いします。