「阿弥陀経」という「経典」には、
「阿弥陀如来の浄土の池の中に咲く蓮華は、車の輪のように大きく、
青色の蓮華には青い光、
黄色の蓮華には黄色い光、
赤色の蓮華には赤い光、
白色の蓮華には白い光があり、
それぞれ清らかな香りを放っている」と説かれています。
仏教において蓮の華がたいへん尊重されています。
極楽には 七宝で出来た美しい池があり、青、黄、赤、白の4色の蓮の華が咲いています。
蓮の葉に乗って遊んでいる人もいます。
新しく極楽に生まれた人が、蓮の華に乗って阿弥陀様に合掌しています。
極楽は、このように美しいところです、と説かれています。
実際に、お寺ではたくさんの「蓮の華」を見かけます。
浄土真宗のご本尊、阿弥陀如来が立たれているのも蓮の上です。また教典・聖典の中にも、「蓮の華」がでてきます。
お寺には、いたる所に蓮華があるのに気づく事と思います。仏像の台座以外にも、供えられた金色の蓮の華、また仏具や装飾にも用いられています。
一体、なぜこんなに蓮華を大事にしているかと申しますと、仏教の起こったインドでは蓮の華を花の王として尊びました。中でも真白な大輪の華は、仏のお悟りを表すものとされていました。そのため、仏教では蓮の華が多く用いられたのです。
蓮の咲く沼は、どれもこれも、決して見映えのよいものではありません。いや、言葉を換えれば、むしろ不浄の沼と言ってもよい。決して清らかな沼ではないのです。
水も濁り、泥もまた悪臭を放っているかもしれない。そのような泥沼を好んで蓮の種はまかれ、
そのような泥沼のなかから、好んで蓮は華を咲かせるのです。
泥水の上に、清らかな茎を伸ばし、
そして、世にも希なる赤い華を、紫の華を、白い華を、咲かせてゆく。
その姿はとても、この世のものとは思われない。
それはちょうど、お釈迦さまが四苦八苦で象徴される、この世のあらゆる苦しみの中で、悟りという清らかな華を咲かせたという事実にかなったものだと考えられています。
蓮の華はちょっと変わった性質をもっていて、真水に近いような綺麗な水だと小さな華にしかならず、泥水が濃ければ濃いほど、大輪の華を咲かせるのです。
この泥水の中から立ち上がってくる蓮の華を、私たちの人生でたとえると、泥水は苦難や困難を表し、華の中の実が悟りだと仏教では考えられていて、悲しいことや辛いことがなければ、人間は悟ることができないと言い伝えられています。
「蓮華」は「物事をありのままに見ることができる、美しい清らかな心」を表しています。
つまり仏教では「このどろどろした娑婆の世界で、美しい清らかな心をもった目覚めた者になろう」と蓮の華を意味づけています。
つまり、思い通りにいかないのがこの世のさだめです。でも、私たちは何とか思い通りにならないものかと、ついつい思ってしまいます。そこに「苦」が生じるのです。その「苦」をいかに克服したらよいかと思い立たれたのが、釈尊が出家された動機だといわれています。
釈尊は、娑婆といわれるこの世界でも悟りを目指すことができると説かれました。そうした意味からも蓮を尊ぶのです。
私たちの心は、ともすれば腹を立てる心や、必要以上にほしがる心や、思うようにならないことから、愚痴を言う心で満ちあふれていると言っても過言ではありません。その状態を例えれば、泥沼のようなドロドロとしたものです。美しい蓮の華はそのような泥沼の中に咲きます。しかも、泥に染まらぬ美しい華です。
そのような生き方をするためには、信仰心がなければなりません。
信仰心なくばすべてのものは不毛です。信仰心があって教育を受けて、はじめて教養というものはできてくる。
もし、信仰心の基礎なくば、いくら学問的詰め込みをしても、真の教養は生まれない。それらは偽物の教養である。それらは、せいぜい科学的知識、あるいは仏を否定するような唯物的知識の集積であって、ほんとうの教養とは言えない。
真の教養は、信仰の土台があって、はじめて成り立つものなのです。
そして、信仰の土台があって、はじめて真の教養が成り立ち、真の教養人が地に溢れて、そこに平和な世界が展開してくるのです。
この地上の世は、この世の中は、汚濁に満ちているように見えるかもしれない。
この世の中は、誘惑に満ちているかもしれない。
この世の中は、いつもいつも転落の危機に満ち満ちているかもしれない。
しかし、私たちはそのような環境を避けてはならない。
私たちは、そのような環境から逃れようとしてはならない。
そのような、泥沼のなかからも、素晴らしい蓮の華を咲かせるのです。
それが、私たちが今世、仏の弟子として生まれたことの意味なのです。
この世の中が、いかに不幸に満ちているとも、いかに苦難に満ちているとも、
そのことを言いわけにしてはならない。
---owari---
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