私はいつもあなたがたに、執着を去れと教えてきたはずだ。
執着のなかでも、あなたがたを成功から遠ざける最たるものは、
時間における執着だ。
時間における執着とは、焦りのことをいう。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、常に苦しんでいる。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、常に迷っている。
あなたがたは、焦りという名の執着によって、常に虜となっている。
人びとよ、まさしく焦りは人生の敵である。
静かにゆく者は遠くまでゆくのだ。
音少なくしてゆく者は、千里を駆ける。
騒がしく鉦や太鼓の音とともに歩むものは、
さほど遠くまで進むことはできない。
なぜならば、鉦を打ち、太鼓をたたく音を聞いて、
まわりからゾロゾロといろいろな人が集まってきて、
やがて話し込むうちに、本来の旅の目的を忘れ去ってしまうからだ。
ゆえに、諸人よ、
先を急ごうとするならば、静かにゆけ。
目的が遥かに遠くにあるならば、すみやかにゆけ。
深く、静かにゆくがよい。
その際に、決して焦ってはならない。
決して急いではならない。
焦りの気持ちとは何であるか、考えたことがあるだろうか。
焦りの気持ちとは、いち早く結果を手に入れたいとする気持ちだ。
努力を惜しんで、努力の目的であるところのその成果を、
人より早く手に入れたいとすることだ。
ゆえに、諸人よ、よくよく心せよ。
もし、あなたがたの人生に迷いが生じてきたならば、
この迷いとは、実は焦りにほかならないのではないかと、
焦りこそが迷いを生み、迷いの根源が焦りではないのかと。
その時に、深く深呼吸をして、
何ゆえ焦るのかと、自問自答するがよい。
何ゆえ焦るのか、
何ゆえ急ぐのか、
何ゆえ慌てるのか、
考えてみれば、さして根拠のあることではあるまい。
さしたる根拠はないのだ。
焦りの根源は、いつも似たようなところにある。
さしたる根拠もなく、焦っているのだ。
それは、時間が経つうちに、
何か漠然と不安な出来事が自分を襲うのではないかと感じているのだ。
何か将来に不安なるものが現れて、
自分を害するのではないかと思っているからだ。
およそ、焦りの原因は不安の影におののくところにある。
自分を害するものが、自分を傷つけるものが、
立ち現われてくるのではないかという不安感に焦りの根源がある。
諸人よ、よくよく考えてみよ。
あなたがたの人生の使命とは、いったいどこにあったかを。
あなたがたの人生の目的とは、いったいどこにあったかを。
さすれば、思いつくことがあるであろう。
それは、我らは決して地上において、
人生を早く行き過ぎることを目標とはしていないということだ。
駆け足で通り過ぎてしまったところで、
人生に何らの味わいもあるはずがない。
成長の山の頂を極めたところで、
さしたることがあろうはずもない。
平坦であることを恐れてはならない。
平凡であることを恐れてはならない。
一時の流行に心を動かしてはならない。
世の常識に妥協してはならない。
世人の声に迷ってはならない。
また、あなたがたを深く愛していると称する人びとの心にも、
迷ってはならない。
道を進む者は、静かにゆけ。
道を歩む者は、静かにゆけ。
その足音を他の者に気取られてはならない。
これから、自分が長旅をゆくのだということを、
他の人びとに告げる必要はない。
いや、告げてはならない。
長旅をゆくことを告げることによって、
あなたがたの道を妨げる者があるであろう。
それは、必ずしも悪意の妨げのみではない。
善意の妨げというものもあるであろう。
そのような長旅は危険がともなうからこそ、
やめておいたほうがよいと言う人も、跡を絶たないであろう。(仏陀再誕より)
---owari---
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