このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

国語の地下水脈(前編)

2021年09月10日 | 日本
日本人の感性を磨いてきた名文を暗誦すれば、生きる力が湧いてくる。

(言葉の不思議な力)
私(わたくし)、生まれも育ちも葛飾(かつしか)柴又(しばまた)です。
帝釈天(たいしゃくてん)で産湯(うぶゆ)をつかい、
姓は車、名は寅次郎、人呼んでフーテンの寅と発します。

ご存じ寅さんの口上(こうじょう)だ。声に出して読んでみて欲しい。腹から声を出すのだが、あまりドスを効かせず、やや高い声で歯切れよく。首を少し傾けて、口を横に引っ張り、不自然にほほえむようにすると良いという。

短くテンポも良いので、すぐに覚えられるだろう。覚えたら文章を見ずに、声に出して貰いたい。渥美清演ずる、おっちょこちょいの寅さんが精一杯気取って、名乗りをあげる様を想像しながら。

こうして何度か声に出していると、自分が寅さんになったような気がしてくるから不思議である。言葉とはそもそも文字を目で追うものではなかった。身体を使って声に出し、そのリズム、高低、強弱、息づかい、身振り手振りなど、身体全体で相手に自分の心を伝えるものであった。したがって寅さんの口上を真似すれば、寅さんの心が乗り移ってくる。言葉にはそういう不思議な力がある。

(子供たちの心にエネルギーを伝えていく言葉)
身体を使って言葉を発することで、心が伝わるのなら、それは子供の教育にも使えるはずだ。エネルギーのこもった文を声を出して読み上げることにより、子供たちの心にもエネルギーが伝わっていく。たとえば、次の一文などはどうだろうか。

水を両手で掬(すく)って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労恢復(かいふく)と共に、わずかながら希望が生まれた。義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。斜陽は赤い光を、樹々(きぎ)の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は信じられている。私の命なぞは、問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。いまはただその一事(いちじ)だ。走れ!メロス。

太宰治の「走れメロス」の一節である。声に出して朗読してみて欲しい。「義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。」「私を、待っている人があるのだ。少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。」と、たたみかけて、心の底からだんだんエネルギーが湧き上がってくる感じである。そのエネルギーあふれるリズムが次第に高まって、ついには「私は、信頼に報いなければならぬ。」「いまはただその一事(いちじ)だ。」「走れ! メロス。」と断固たる決意に昇華する。

主人公の心の動きと見事に一致したリズムからメロスの雄々しい心が伝わってくる。
そしてその間に「斜陽は赤い光を、樹々の葉に投じ、葉も枝も燃えるばかりに輝いている」という静かな、目にも鮮やかな一瞬の光景が挟まれている。こんな美しさと力強さに溢れた名文を小学生の時から暗唱・朗唱していたら、子供たちは無気力・無関心・無感動などにはならないであろう。

(雨ニモマケズ)
子供たちに学んでもらいたいのは、美しさや雄々しさだけではない。忍耐強さや思いやりも身につけさせたい。それには宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」が良い。

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ 丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク 決シテ瞋(いか)ラズ
イツモシヅカニワラツテイル

一日ニ玄米四合ト 味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 小サナ萱ブキ小屋ニイテ

東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ
西ニ疲レタ母アレバ 行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ 
行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ クニモサレズ
サウイウモノニ ワタシハナリタイ

「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」と出だしから、マ行の音が続いて、いかにも「もたもた」したリズムが木訥(ぼくとつ)な生き方をそのまま現している。東西南北を歩き回って一生懸命、周囲の人々を助けようとするが、涙を流したり、おろおろ歩いたりと、たいしたことはできない。だから誉められもしないし、苦にもされない。しかし、そういう地道で誠実な生き方こそ尊いのだ、というメッセージが木訥なリズムの中に充満しているからこそ、この詩が多くの日本人に長らく愛唱されてきたのだろう。

勉強やスポーツなどできなくとも、思いやりをもって生きることこそ大切なのだ、ということを、この詩を暗唱することで、子供たちに感じ取って欲しいものだ。

(祖国とは国語)
ある一人の天才が残した言葉が、多くの人々に愛唱されることによって、その心の中に生き続け、その感性を育てていく。また後に続く世代もその言葉を教えられることによって、先人の感性を継承していく。こうして一つの民族は、言葉によって共通の感性を育てていくのである。

特に我々日本人は、はるか神話の時代から日本語を育て、また日本語に育てられてきた。その一例として「春」に関して日本人の感性を磨いきあげてきた文章をいくつか挙げてみよう。

石(いわ)ばしる垂水(たるみ)の上のさ蕨(わらび)の萌え出
づる春になりにけるかも (志貴皇子、奈良時代)

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少しあかりて、
紫だちたる雲の細くたなびきたる。(枕草子、平安時代)

春の海終日(ひねもす)のたりのたり哉(かな) 
(与謝蕪村、江戸時代)

春のうららの隅田川 のぼりくだりの 船人が
櫂(かい)のしずくも花と散る 眺めを何にたとふべき 
(武島羽衣作詞、滝廉太郎作曲、明治時代)

「石ばしる」から「春のうららの」まで千二百年ほども離れている。我々日本人はかくも長い間、繰り返し繰り返し、春を愛でる言葉を生み出し、またその言葉を暗誦することで春を愛おしむ感性を磨いてきたのである。

私たちは、ある国に住むのではない。ある国語に住むのだ。祖国とは国語だ。それ以外の何ものでもない。
とは、フランスのシオランという哲学者の言葉だそうだが、まさに日本人とは日本語の中に生まれ、育ってきた民族である。

---owari---
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