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ジョン万次郎の奇跡

2016年05月11日 | 日本

ジョン万次郎こと中濱萬次郎は江戸時代末期の1827年、土佐清水市中浜の貧しい漁師の家に、2男3女の次男として生まれました。9歳で5人の子供を残し父親が他界。貧しい家柄だったため読み書きの勉強も出来ず、また兄が病弱なため14歳の時に一家を支えるため宇佐浦の漁船で働き始めたのです。

 

1841年1月、万次郎14歳の年の初漁で、仲間4人とともに長さ8メートルの小舟に乗って漁に出ますが、3日後にシケに遭い、漂流。さらに6日後、土佐清水市から海上760キロ南の太平洋の孤島、鳥島(伊豆諸島)に漂着します。

 

そこで約半年間の過酷な無人島生活を送り、143日後、海亀の卵を食料にするためにこの島にやってきたアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって発見され、助けられました。しかし、この出会いが万次郎の人生を大きく変えることとなったのです。

 

当時の日本は鎖国の時代で、外国船は日本に近づくことさえ難しく、万次郎たちは日本に帰ることができませんでした。たとえ帰国したとしても、外国人と接触したということだけで命の保証がありません。 実際に、1837年に漂流者を助けて浦賀に入港しようとしたアメリカのモリソン号が撃退されるという事件があったばかりでした。

 

ジョン・ハウランド号の船長ホイットフィールド(当時36歳)は、万次郎を除く4人を安全なハワイに降ろし、生活態度が良く見どころのあった万次郎をアメリカで養育したいと申し出ました。万次郎自身も異国の文化を学びたいという気持ちがあったので、アメリカに渡ることを決心したのです。

 

万次郎の鋭い観察力と前向きな行動力は船長らに認められ、早速、ジョン・ハウランド号からとった「ジョン・マン」という愛称をつけられたのでした。

 

1843年、万次郎が救出されてから2年後、船はアメリカ最大の捕鯨基地、マサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港しました。

 

万次郎の訪れたアメリカは西部開拓の時代でした。ホイットフィールド船長は、誠実でたくましく働き者のジョン・マンを我が子のように愛し、ふるさとのフェアヘーブンに連れ帰って、英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせます。万次郎は初めてアメリカ本土の地を踏んだ日本人であり、当然、日本人留学生第1号でもあったのです。

 

学校では、首席になるほど熱心に勉学に励みました。しかも学費やテキスト代など、食事以外のすべての費用を自分で稼いでまかなっていました。船長の好意には甘えない、真面目な一面がうかがえます。やがて、学校を卒業した万次郎は、捕鯨船に乗って7つの海を航海します。 

 

1846年5月、ジョン・ハウランド号の船員だったアイラ・デービスという人が、フランクリン号という捕鯨船の船長として日本方面に行くという事で万次郎は誘われました。万次郎は躊躇したが船長婦人に薦められて出航。ボストンに寄り太平洋で捕鯨中にデービス船長が精神病になり、フィリピンのマニラで下船。新船長の選挙で、万次郎はキーエンという航海士と同票数を獲得したのですが、年長のキーエンに譲り、自分は副船長になったのです。3年4か月の航海でベッドフォードに帰港。世界に通じる航海士となった万次郎でしたが、若干まだ20歳だったのです。

 

1849年11月、二度目の航海を経てフェアヘーブンに帰港した万次郎は、日本へ帰国の資金を稼ぐため、ホイットフィールドの船長の許可を得てゴールドラッシュに沸く西海岸へピストル2丁をもって向かった。サンフランシスコからボートで1日がかりでサクラメントに到着、5日間かけて険しい山を超え金山に入り70日間働き700ドルを稼いだ。ご参考までに、当時の水夫の月給は17ドルだったのです。

 

帰国のための資金を調達できた万次郎は、ハワイに向けてサンフランシスコを出航。ホノルルで漂流した仲間と再会し、すでに他界した1名、結婚した1名を残し3名で帰国の計画を考えた。鎖国中の日本に外国船は近寄れないので、当時薩摩藩下の独立国琉球王国にいったんボートで上陸するという事にした。ボートをアドベンチャー号と名をつけ、捕鯨船サラボイド号で出航したのです。

 

1851年2月、2人の仲間とともに万次郎は琉球(沖縄県)に上陸しました。漂流から10年後のことでした。薩摩藩領の琉球では、約半年の間、尋問を受けた後、薩摩藩、長崎奉行所、土佐へと護送されて取り調べを受け、翌年の夏ようやく土佐にある我が家に帰ることができたのです。

 

ここで運が良かったのは、薩摩藩主、島津斉彬や土佐の山内容堂が先進的な考えを持ち、欧米に関心を持っていたので、脱国した罪人としてではなく、貴重な情報を持った賓客として扱われたということでした。

1853年6月、いよいよ、ペリー率いる黒船が浦賀に来航。開国を迫る米国大統領の親書を手渡し「来年回答をもらいに来る」といったん去った。当時日本でアメリカ事情を知る者は万次郎のみで、幕府は万次郎を江戸に呼び寄せたのです。

 

1853年8月、万次郎は江戸に着き、幕府直参となり、中濱の姓を名乗るようになりました。

幕府はペリー来航によりアメリカの情報を必要としていたので、翻訳や通訳を任せられる万次郎を登用したのです。

 

1854年3月、ペリー提督は親書の回答を求め再び来航。万次郎は日米和親条約の締結に奔走し、条約が締結された。

条約の主な内容に万次郎が唱えた捕鯨船の救済が条件に含まれたのでした。

 

また、日米修好通商条約批准の際には、使節団の一員として勝海舟らと共に咸臨丸に乗り込みました。橋渡し役として、日米関係の友好化に努めたのです。

その後、万次郎は日本で初めての通訳としてビジネス英会話を役立てたり、アメリカの知識を求めてくる幕府の重鎮や維新志士にその経験を伝えたりと様々な功績を残しました。

 

万次郎は英会話本や航海術本の作成、造船や捕鯨の技術指導、さらに土佐の藩校の開設などさまざまな分野で活躍しました。

 

万次郎の11年間のアメリカの知識は、あの坂本龍馬や福沢諭吉など誰もが知っている幕末の英雄たちに影響を与えたのです。

万次郎がいなかったら日本の近代史は別のものになっていただろうという意見もあるほどです。

 

日本で初のビジネス英会話で通訳を行っていた万次郎は、「英米対話捷径」という日本で最初の英会話の入門書を書いています。万次郎は英会話の発音において独特のメソッドを持っていました。
万次郎は、英語を覚えた際に、耳で聞こえた発音をそのまま発音、表記しており、その表現は現在の英語の発音辞書で教えているものとは大きく異なっています。

 

一例をあげると、「Water」は今ではウォーターと表記しますが、万次郎は「ワラ」と表記していました。他にも「Sunday」は「サンレイ」、「Morning」は「モヲネン」などの発音表記を残しています。

日本人の英語の発音の悪さが度々問いただされますが、万次郎はまさに先入観なしで入ってきた音をそのまま再現していたため、非常にアメリカ英語の発音に近かったと言われています。

実際に現在の英米人に万次郎の発音通りに話すと、十分に意味が通じるという実験結果もあり、万次郎の記した英語辞書の発音法を参考にして教えている英会話教室もあるのです。

 

ジョン万次郎が何故ここまでの功績を残せたのか、偉人として今の日本に語り継がれているのか、その理由は数奇な人生から見て取れる彼の精神の強さや素晴らしい人柄があったからこそではないでしょうか。

貧しい家に生まれ、少年時代に漂流という苦難を経て、アメリカという全く未知なる世界に飛び込んでいく。そこには逆境をバネにして成長しようという不屈の精神が感じ取れます。

ジョン万次郎には人一倍の好奇心の強さや一生懸命さがあり、それが周囲の人達の心を惹きつけ、彼の周りには支援者が次第に増えていったと言われています。

 

また、アメリカで勉学に励んだのは自分のためだけではなく、彼を助け養子としてくれたホイットフィールド船長への感謝の気持ちからでもありました。その謙虚さや人情の熱さは晩年の生活からも見て取れます。

 

政治家にならないかと誘われても、それを断り教育者であることを選び、貧しい人に積極的に施しを与えました。
ジョン万次郎は日本人初の英語通訳としての功績と共に、壮絶な運命の中でも常に必死に生き抜いてきた彼の生き様があったからこそ現在でも歴史に名を連ねる偉人となりえたのではないでしょうか。

 

そして、名もない、幼い漁師でありながら、勉学に励めばアメリカでも首席となるその潜在能力の高さは、日本人が持つ精神性の高さではなかったでしょうか。

 

そして、ホイットフィールド船長に愛され、船員仲間にも認められたジョン万次郎は素晴らしい性格を持った人であったと言えるのです。


そして、私が最も感心したのは、ペリーの黒船来航というこの国難に際し、ジョン万次郎にアメリカの地を踏ませ、英会話ができるように教育し、アメリカの実情を学ばせて、帰国させ対応させた、天上界の神々の真意を感じるのです。

 

ジョン万次郎が経験した出来事は、偶然にしては、絶妙なるタイミングであったと言わざるを得ません。もちろん、その大きな負託に立派に応えたジョン万次郎の見事さに、大いに感謝しなければなりません。

 

ジョン万次郎の明晰で快活な素養は素晴らしく、また彼の勇気と行動力それに応えたホイットフィールド船長の寛容さも忘れてはならないと思いました。

 

この物語は、NHKの大河ドラマにもできそうな様々なストーリーがあります。

男ばかりのシーンが多いため、華やかさには欠けそうですが、内容のある展開が望めますので、是非、ご検討いただきたいと願うのです。

 

---owari--- 

コメント (2)    この記事についてブログを書く
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2 コメント

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Unknown (tnlabo)
2016-05-14 11:07:24
ジョン・マンを取り上げられた見識に乾杯
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はじめまして (このゆびと〜まれ!)
2016-05-14 13:05:04
tnlaboさんへ

コメントを頂き、有難うございました。

ほんの小さな労ですが、お陰様で報われます。
お礼申し上げます。
返信する

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