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渡岸寺の十一面観音は美しすぎる

2015年11月25日 | 旅行

さて、今回の旅もマイカーを利用しての名所めぐりとなった。同行した三男が国宝、重文が好きなために、いつも観光名所と神社仏閣を訪れる。


滋賀県長浜市にある渡岸寺(どうがんじ)には国宝の十一面観音像が観音堂に安置されている。
この十一面観音は、日本全国に七体ある国宝十一面観音の中でも最も美しいとされる日本彫刻史上の最高傑作といわれ、祈りの仏にふさわしい、慈愛に満ちたお姿の観音さまです。

寺伝によれば、天平8年(736年)、当時、都に疱瘡が流行したので、聖武天皇は泰澄に除災祈祷を命じたという。泰澄は十一面観世音を彫り、光眼寺を建立し息災延命、万民豊楽の祈祷を行い、その後、憂いは絶たれたという。その後、病除けの霊験あらたかな観音さまとして、信仰されるようになった。


元亀元年(1570年)、浅井・織田の戦火のためにお堂は焼失した。しかし観音を篤く信仰する住職や近隣の住民は、観世音を土中に埋蔵して難を逃れたという。

滋賀県の湖北地方は「観音の里」と呼ばれている地域で、地元の人が今も集落それぞれで観音さまを守っている地域。しかも、完成度の高い観音さまが多い地域なのです。

像高は194cm(頭上面を含む)、檜材の一木彫である。像は蓮華座上に左脚を支脚、右脚を遊脚として立ち、腰をこころもち左にひねる。均整のとれた体躯、胸部や大腿部の豊かな肉取り、腰を捻り片脚を遊ばせた体勢などにインドや西域の風が伺われる。文学作品や映画などにも取り上げられた、日本における観音像の代表作として著名な作品である。

観音像の真後ろの頭部には、「暴悪大笑面」という顔があります。
笑っているのか、怒っているのか分からない、不気味にも見えるような複雑な顔。
悪や煩悩への怒りが極まって、それらを大口をあけて笑い滅する顔なのだとか。


「暴悪大笑面」は悪行を大笑いして改心させ、善の道に向かわせるといわれています。
「暴悪大笑面」はなかなか見れるものではないので、行ったときにはぜひ見てください。

観音像の慈悲のある正面のお顔とは対照的な「暴悪大笑面」ですが、なぜか違和感を感じないのです。鬼を手なずけている仏のように、そのような悪をもまとめて面倒を見ているというような慈愛が周囲に漂っているのです。

まず、この美しいプロポーションに感動します。体のラインに妖艶さを感じます。
観音堂の中は空調が整備されていて、しっかり保存できる体制になっているので、ガラスケース越しではなく、近くまで寄って拝観することができます。

2012年に公開された日本映画『わが母の記』の原作者、井上靖は当地を訪れている。
その筆者の感想を引用します。


「渡岸寺の十一面観音を見に行ったのは四月の桜の時季であった。観音堂は信長に亡ぼされた浅井氏の居城小谷城のあった丘陵がすぐそこに見える湖畔の小平原の一画にあった。写真ではお目にかかったことのある十一面観音像の前に立つ。像高一九四センチ、堂々たる一木造りの観音さまである。

どうしてこのような場所にこのような立派な観音像があるかと、初めてこの像の前に立った者は誰も同じ感慨を持つことであろうと思う。胸から腰へかけて豊かな肉付けも美しいし、ごく僅かにひねっている腰部の安定した量感も見事である。顔容もまたいい。体躯からは官能的な響きさえ感じられるが、顔容は打って変わって森厳な美しさで静まり返っている。

頭上の仏面はどれも思いきって大ぶりで堆く植え付けられてあり、総体の印象は密教的というか、大陸風というか、頗る異色ある十一面観音像である。正統的という言い方をすれば、女人、偉丈夫の違いはあれ、一脈、聖林寺の十一面観音に通じるものがあるように思われる。時代的に見れば法華寺の十一面観音と並ぶ貞観彫刻の傑作ということになる」

もう一人、白洲次郎の妻で、随筆家でもある白洲正子の感想も記したい。


「私がはじめて行った時は、ささやかなお堂の中に安置されており、索漠とした湖北の風景の中で、思いもかけず美しい観音に接した時は、ほんとうに仏にまみえるという心地がした。ことに美しいと思ったのはその後ろ姿で、流れるような衣文のひだをなびかせつつ、わずかに腰をひねって歩み出そうとするその動きには、何ともいえぬ魅力がある。

十一面観音は色っぽい。そんな印象を受けたが、十一面の中でも、『暴悪大笑面』というもっとも悪魔的な顔を、後ろにつけているのは何を意味するのであろうか。」
外は蝉時雨が聞える。静粛とした蔵の中でしばらく像の前に佇んでいた。


白洲正子は、十一面観音は白山の神が化身したもの、とも云っていたが、まさに、白山比命(しらやまひめのみこと)の神々しくも艶かしい女体を想像しながらこの観音像を見つめていた。

私は各地に見られる「不動明王」は直線的な線形で、悪をこらしめる強さを表現しているが、十一面観音は曲線的な線形で、美を極める芸術をつかさどる仏であるように感じた。もちろん、修羅道に迷う人々を救い、苦しんでいる人をすぐに見つけ、全方向を見守っている観音さまであることは違いないが、何か天上界の美をつかさどる仏に見えてしまうのです。


天上界のビーナスと私は感じました。

---owari---

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