明治神宮の内苑・外苑は、数百万人の国民の協力で創られた。
(森、表参道、神宮球場、、、)
読者の皆さんは、次のことをご存じでしょうか?
「明治神宮の鬱蒼(うっそう)とした森は、人が作ったものです。以前は、荒れ果てた不毛の地でした」
「ファッションやグルメで若者に大人気のスポット、表参道とは明治神宮への参道です」
「野球の聖地、神宮球場は、明治神宮の野球場です」
明治神宮の内苑・外苑は明治天皇崩御を機に、明治の御代を記念し、世界に誇れる首都を作ろうと、数百万の国民が力を合わせて創り上げたものです。
2020年11月1日に明治神宮は鎮座100年を迎えました。この機会に、我々の先人たちがどのように明治神宮の内苑・外苑を創りあげたのか、見てみましょう。
(首都の品格が国家の品格を代表する)
明治45(1912)年7月30日零時43分、明治天皇が崩御されました。阪谷芳郎・東京市長は7月20日に天皇御重体が伝えられてから毎日、参内していましたが、崩御の報を受け、午前1時には駆けつけました。同時に、市長は河村金五郎・宮内次官に対し、東京への陵墓選定を哀願したのです。
同日、渋沢栄一も陳情の陣頭指揮を執って欲しいと依頼されて、総理大臣・西園寺公望、宮内大臣・渡邊千秋に面会し、東京への陵墓治定を願い出ています。
しかし、御陵は「先帝の御遺志」により、京都に内定していることを知らされました。京都に生まれ育った先帝は京都が大好きでしたが、東京は帝都で大切の地だから生前は離れない。しかし、死後には京都に還り桃山の地で眠りたい、と希望されていたというのです。
こう明かされると、渋沢も阪谷も引き下がるよりほかはありませんでした。かくなるうえは陵墓でなく、神社を作ろう、と彼らは一決したのです。
同様の請願は各地から次々に寄せられ、筑波山、箱根山など、13もの候補地が上げられました。そのなかで、もっとも陳情が多かったのが富士山でした。たしかに「神聖、森厳(しんげん)」を旨とするなら、富士山が最適でした。
しかし明治天皇の御威徳を国民が偲ぶには、参拝に便利な場所でなければなりません。やはり東京を鎮座の場所とし、「神聖、森厳」は人の知恵でなんとかするしかない、と決まりました。
同時に阪谷は東京市長として、明治神宮を核として「帝都の品格」を向上させ、パリやロンドンに負けない首都にしよう、との志を抱いていました。首都の品格が国家の品格を代表するからです。
(伝統を示す内苑は国で、革新を現す外苑は国民の力で)
東京での神宮創建が決まって、渋沢が提案したのは、神宮を内苑と外苑に分け、内苑は鬱蒼とした森に囲まれた古式通りの神社とし、外苑はスポーツ施設や文化施設を擁する人々の憩いの場にしようという構想でした。内苑は伝統を保ち、外苑は革新を現す、という構想で、これが今日の明治神宮の大きな魅力となっています。
さらに渋沢らしい提案は、内苑は政府の国費で作るが、外苑は国民の力で作り、官民一体の事業にしよう、というものです。ここから広範な国民参加が実現していきます。
国民からの寄附は最終的には内外7百万人余から、7百万円以上も寄せられました。大正元年の人口は53百万人ほどですので、国民の7~8人に1人が、寄付に参加したことになります。さらに9万5千本以上の樹木が国民から献納され、造成作業にも延べ11万人の青年団がボランティアに駆けつけるなど、寄付以外にも多くの国民が協力しました。
(かつては「土地が荒れ果てて不毛の地」)
しかし、大都市・東京の中に「神聖、森厳」の杜を創るのは難題でした。もともと、この一帯は「土地が荒れ果てて不毛の地」でした。特に現在の表玄関である南参道口広場から、鳥居を抜けていく参道は、かつては代々木の練兵場の一部で、まったく樹木のない草地でした。
ここでの杜(もり)作りに挑戦したのが、東京帝国大学農科大学教授・本多静六とその弟子たちでした。本多はドイツで最先端の森林学を学び、その土地に最も適合し、自分本来の力で伸びていく樹木を植えるべきだ、と考えていました。そこで椎(しい)・樫(かし)・楠(くすのき)の広葉樹を中心に選び、100年後に美しい、しかも人間が手を入れる必要のない自然林を育てる植栽計画を立てたのです。
この結果が、現在、我々が目にする参道の鬱蒼とした内苑の杜です。本多の計画通り、人の手をほとんど必要としない、鬱蒼とした自然林に育ちました。わずか100年前には「不毛の地」で、これだけの森林が人工で作られたとは、誰にも思えないでしょう。
若者がごったがえす原宿の街から一歩、参道に入れば、周囲の高層ビルも見えなくなり、まさに「神聖、森厳」たる森林に包まれます。
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参道を進むうちに、街の雑踏は遠のき、代わりに野鳥の鳴き声や木の葉のそよぎ、参拝者が玉砂利を踏む音だけが、耳に語りかけてくるようになります。さらには、それさえ気づかないほどの静けさに心が満たされてきます。
よそでは大きな声で話したり笑ったりしている若者たちや外国の人たちが、この森では、自然に口数が少なくなり、お行儀がよくなるのは、まさに神苑としての、神宮の森が自然にそうさせるのでしょう。
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(9万5千余本の献木)
最終的には9万5千余本の樹木が植えられたのですが、その予算はもともと用意されていませんでした。始めから国民の献木を当てにしていたのです。はたして国民から寄せられた樹木は予定以上に多かったのですが、返却するのも忍びないとそのまま植えられました。
その内容をごくごく一部だけ紹介すると
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はぜ 36本 福岡縣三井郡二十四ヶ町村
ひめまつ 119本 山形県県庁役所吏員
しひ 51本 藤田男爵
かし 50本 同
むく 11本 日本園芸会
しひ 197本 東京市小学児童
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という次第で、老いも若きも貴族も一般国民も、こぞって献木しています。
小学児童からの献木は、東京市が「教育上児童に相応しき記念の事業」として市内各小学校長に諮(はか)り、東京市内児童とその保護者を対象として献納樹木購入費を募ったものです。募金総額は2万372円(現在価値にして数千万円規模)に達し、黒松計5270本が献納され、南北参道両側を中心に植樹されました。
今、我々が自然林と思い込んでいる参道の杜は、こうした当時の小学生も含めた国民の思いの籠もったものなのです。
(「国民性を人類的・世界的立場に立って矯(た)め直す」)
杜づくりの進められた大正の初め頃は、ちょうど第1次大戦時にあたり、物価高騰に直撃されて、工員賃金支払いが圧迫されました。この事態を救ったのが、青年団の造営奉仕でした。
青年団は、年齢18歳以上24歳まで50~60人で一団を結成して、10~15日の間、土木作業に従事しました。計209団体、延べ約11万人が参加しています。
神宮造営の青年団奉仕といっても、「決していわゆる神がかり的思想や軍国主義的思想に出発したものではなかった」と書き残されています。
青年団奉仕のリーダー田澤義鋪(よしはる)は、日露戦争後に満洲の大連で「戦勝を笠に来た日本人の傲慢さ」を見て、「今何よりも大事なことは、国民性を人類的・世界的立場に立って矯(た)め直すことだ」と考えて、青年団を通じた教育活動に取り組んでいたのです。
青年団奉仕では宿舎で共同の自炊をし、朝6時から午後3時半までは奉仕作業に従事、その後は修養講話を聞いたり、国会議事堂や二重橋などへの見学に行っています。まさに青年育成のための合宿でした。
造営奉仕は内苑だけでなく、外苑での工事にも貢献しました。我々が今日見る外苑の銀杏並木や、神宮球場、国立競技場周辺の整然とした景観は、当時の青年たちの汗の結晶なのです。
明治神宮の鎮座祭が行われた直後の大正9(1920)年11月、造営に奉仕した全国の青年団の代表者約7百名が集まり、財団法人日本青年館の設立が決議されました。そして、全国2百余万の青年が一人一円づつ寄付して、外苑の一角に「日本青年館」を建設し、ホテルや会議場を備えた青年団運動の拠点としました。現在の広壮な「日本青年館ホール」は三代目の建物です。
(徹底した史実考証に基づいた80枚の歴史絵画)
現在は神宮球場などの陰でひっそりと鎮まっていますが、「明治神宮外苑の中心施設」として建設されたのが、聖徳記念絵画館です。ここには、日本画、西洋画の代表的画家たちが明治の御代を描いた80点の絵画が展示されています。その中には、中学や高校の歴史教科書に掲載されている絵画が何点も含まれ、ほとんどの人は「この絵は見たことがある」と思うでしょう。
絵画館の画題選定の中心となったのが、金子堅太郎です。金子は米国ハーバード大学に留学し、日露戦争中は米国での親日世論醸成に獅子奮迅の活躍をしました。彼は明治憲法制定に参画した時、ウィーン大学の憲法学者ローレンツ・フォン・シュタイン教授から「法は民族精神・国民精神の発露」であり、国民の歴史の中から発達していくもの、と教わりました。
その方針からシュタイン教授も称賛した大日本帝国憲法が起草されたのですが、金子は同時に欧米諸国に対等な立憲国家として認知され尊敬を勝ち得るためにも、「真正ナル本邦歴史」を確立することを悲願としていました。
その悲願を実現すべく、金子は『大日本維新史料』『明治天皇紀』と、二つの国家的修史事業の総裁を務めていました。そして、さらに絵画館委員会議長として、画題の設定の中心となったのです。
金子の方針は、天皇個人の出来事よりも、明治日本の発展の足跡を描くことでした。それを描けば、その中心に自ずから明治天皇が浮かび上がるのです。その中でも特に国民との関係を重視しました。明治天皇を中心に、明治の国民がいかに力を合わせて近代国家を作り上げていったのか、の歴史を80枚の絵画で描いたのです。
しかも、絵画の細部に至るまで、二つの国家的修史事業のメンバーが徹底した史実考証に加わり、その結果を踏まえて、それぞれの画家が各場面を描いています。ある歴史小説作家は、調べれば調べるほど、これらの絵が史実に忠実に描かれているのが分かり、歴史小説の構想を練るために、しばしば絵画館を訪れるのだそうです。
時代考証のもっとも大がかりな例は、熊本出身の日本画家・近藤樵仙(しょうせん)が描いた「西南役熊本籠城」です。大正11年に地元をあげて、45年前の戦を忠実に再現しました。実際に熊本城に籠城した軍曹などの生存者も協力して、陸軍熊本師団が当時の敵味方の布陣と同様に兵員を配置しました。
さらに旧式大砲を当時と同様に並べ、有煙大砲火薬を使って煙まで出すという念の入れようです。画伯が雇った写真師のみならず、新聞記者や有志が後世に伝えようと、記録写真をとっています。教師に引率された小学生数百名、中学生千名以上、その他大勢の地元住民が、模擬戦を観戦しました。明治日本の国民の歴史を描くこと、それ自体が国民参加のイベントにもなっていたのです。
(「国家の品格」を作った「国民の品格」)
筆者は世界各国の首都に行くと、かならずその地の代表的な歴史的建造物を見に行きます。その中でも特に記憶に残っているのは、ロンドンのセント・ポール大聖堂とパリのベルサイユ宮殿でした。前者には、英国を護り発展させた偉人の彫像や記念碑が所狭しと並んでいます。
ベルサイユ宮殿の南翼は、長さ百メートル、幅七、八メートル、高さ十メートルほどの「戦闘の回廊」と呼ばれ、天上まで届く油絵がずらりと並んで、フランスの栄光の歴史を描いています。こうした歴史的遺産を展示する施設には、よく小中学生たちが先生に連れられて見学に来ています。まさに歴史教育の恰好の教室なのです。
聖徳記念絵画館は両者に匹敵する優れた教育施設なのですが、小中学生どころか、大人の見学者もまばらです。絵画館が子供たちで賑やかになる時代が来れば、これらの名画が彼らの志に火を灯(とも)し、その炎が国を明るくするでしょう。
聖徳記念絵画館に限りません。内苑のいかにも古代からの自然林を思わせる杜と古式豊かな本殿、外苑では、木をふんだんに使って周囲の緑と調和した新しい国立競技場、格式高い結婚式場や5つのレストランを備えた明治記念館、前述の日本青年館ホールなど、壮麗な建物が並んでいます。世界の一流国の首都に負けない品格を持つ地域です。
しかも、何よりもこれだけの「国家の品格」を、国民が力を合わせて創ったという史実、これこそが和の国の「国民の品格」を現しています。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)
---owari---
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