「鉄板で覆った軍船を造って差し出せ」
水軍の総帥として、名を轟かせていた武将、九鬼嘉隆も、この織田信長の命令には、度肝を抜かれた。鉄装を施した軍船など聞いたことがない。第一、重い鉄板を張って、海に浮かぶのだろうか。
半信半疑で建造に取りかかってから2年(1578年)、嘉隆は6隻の鉄甲戦艦を完成させた。最新の銃火器や、当時としては珍しい国産の大砲を備え、側面や矢倉に張られた鉄板が鋭い光を放っていた。
2階建ての戦闘用矢倉の上に3層の天守閣を構え、大砲3門にさらに多数の鉄砲を備えたその偉容は、造船技術で当時圧倒的な先進国だったポルトガルの宣教師・オルガンティーノをも驚嘆させたという。オルガンティーノは「日本においてかくのごとき物を作ることに驚きたり」と母国に報告している。
鉄甲戦艦は、木造の船体に約3ミリ厚の鉄板で装甲を施したものにすぎない。しかしその発想は当時、世界に類を見ないもので、同様の鉄甲船がヨーロッパで登場したのは、それから約300年後のクリミア戦争の頃だったのです。つまり、世界で最初に作られた鉄の戦艦でした。その大きさは長さ22メートル、幅12メートルあり、5000人をのせることができたとされる。
実は完成の2年前、天正4年7月(1576年)毛利から送られた水軍が、織田水軍を撃破し、大量の兵糧を本願寺に運び込むことに成功したのです。海戦において毛利軍に大敗した信長は考えていた。「何としても、毛利水軍を壊滅させねばならない。しかし、焙烙玉の攻撃力は計り知れない」。そこで、信長は前代未聞のアイデアを実行に移したのである。
*焙烙玉・・・陶器に火薬を入れた手りゅう弾のような武器
それが、船の周囲を厚い鉄板で多い覆い、燃えない船、鉄砲の弾さえもはじき返す世界初の鉄の戦艦だったのです。
重い鉄で装甲した巨船が実戦で役に立つはずもないと、たかをくくっていた毛利水軍は、木津川沖の海戦で徹底的に打ちのめされた。信長の鉄甲戦艦に、毛利水軍得意の火攻めは通用せず、1貫目玉の巨砲の威力にまったく太刀打ちできなかったのです。
こうして世界初の鉄甲戦艦は、600隻以上もの船団を率いた毛利水軍との合戦で、大いに威力を発揮し、織田軍の圧勝に終わりました。
重い船は浮かばない、という世間の常識をくつがえす信長らしい発想が生んだ勝利だったのです。
長篠の合戦で、鉄砲隊三段構えという、やはり世界に先駆けた斬新な戦法を発明した天才・織田信長。これも信長の大胆な着想の勝利だったが、これらには当時の日本の製鉄技術が世界的に見ても高い水準にあったことが関係している。
刀や鉄砲の製造に使われた日本独自の「たたら製鉄」の技術は、この頃すでに完成域に達し、巨大な軍船を被うのに必要な良質な鍛鉄を量産する産業基盤がすでにでき上がっていたのです。
戦国時代の英傑、織田信長は、最新の技術と、その鮮やかなる天才的戦術をもって、戦いの采配を奮ったのでした。
---owari---
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