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聖徳太子の叡智(後編)

2016年05月04日 | 歴史

聖徳太子の功績を前編でお伝えしました。

・摂政に就任したこと

・冠位十二階を制定したこと

・十七条憲法を制定したこと

・遣隋使を派遣したこと

・三経義疏の執筆したこと

 

これ以外にも、太子は仏教を広めるために、七大寺を建立されています。

・法隆寺、四天王寺、広隆寺、法起寺、中宮寺、橘寺(聖徳太子生誕地)、葛木寺

 

世に知られていなくて、私が最も素晴らしい功績と感じたのは、我が国最初の国史たる「旧事本紀編纂」です。

 

太子は敢えて天皇位に就(つ)かなかった形跡が認められます。自分には皇太子になるような「徳」はないからと断り、さらに乞われると今度は自分の寿命は五十歳でつきるが天皇は八十歳まで長生きするので、皇太子になっても皇位継承ができないからと、さまざまな理由をつけて何度も断ろうとしている。

 

しかし天皇と群臣たちは諦めなかった。何度も太子に言葉を尽くし、ついには「伏して願わくば」という強い思いで太子の承諾を取り付けている。聖徳太子は苦肉の策として叔母である推古天皇を立て、自らは摂政位に就いたのです。

 

それほど、天皇になるよりも行わねばならないこととして、太子が心血を注いで作成にあたったのが、この「旧事本紀編纂」です。このことで、太子は未来が見えていたので、「自分の寿命が五十歳でつきること」、「自分の子孫は全員いなくなるので皇位継承ができない」と悟っていたのです。太子が未来を見えていたことに関しては、後でお話します。

 

それで、この「旧事本紀編纂」とは何でしょうか?

「旧事本紀」に、元々は神武天皇に高倉下命(たかくらじのみこと)が奉納したと伝えられるもので、政道要諦つまり政(まつりごと)を行うために最も大切なことが書かれた書物だと記されています。高倉下命というのは、記紀に登場する、神武天皇が東征の際に熊野で苦しんでおられたとき、アマテラスの命によってフツノミタマという剣を届けた人物である。

 

「旧事本紀」は、本来は特定の書物のタイトルではない。元々は、日本の吾道、物部、忌部、卜部、出雲、三輪という六家と天皇を合わせた七家に伝わっていた古代の学問書を一つにまとめたものの総称であり、「これは、遠い昔からの御技を教える学問書である」という意味で用いられた呼称です。

 

「旧事本紀」は、三種の神器と共に天皇が皇位を継承するときに相続される秘録のことをいう。

天皇家、六家、そして平岡・泡輪宮の両宮とバラバラになっていた超古代の叡智が聖徳太子の手元に揃い、いよいよ編纂事業が本格的にスタートする。

 

太子は秦河勝に命じ、「旧事本紀」の編纂にあたり、スタッフに「この本に色付けしてはならない」と厳命している。一字一句変えてはならない。読む人間の立場や読む人間の感想を入れてはいけない。秘伝書をそのままそっくり写せと言っている。こうして、神代文字を写し取らせ、そのままそっくり意味を違えることがないよう細心の注意を払って漢文に翻訳させている。

 

六家に伝わっていた古文獻に、それぞれの固有名称があったのかどうかすらわからない。旧事本紀編纂に際し、特別、天皇家に貸し出されたこれら六家の古文献は、本来は門外不出の秘伝書だった。家々の秘伝書の内容は、それぞれ異なる。それらを貫く天隠山(あめのかぐやま)理論は同じものであっても、それをもとにした医術が伝わっているのか、暦法が伝わっているのか、あるいは占いが伝わっているのか、祭祀(さいし)法が伝わっているのか、学ぶべきことはそれぞれ違う。そしてその違いが、そのままその家にしかできない重要な「おつとめ」の内容になってくる。

 

たとえば、物部氏は古代から軍部の仕事を司っていたことが知られているが、それはそのための学問が物部家に伝わっていたからだと考えられる。各家にはそうした専門分野があり、それぞれの立場で全力を尽くし協力し合うことで、天皇家を支えてきたのだ。

 

「旧事本紀」の完成後、それぞれの家に秘伝書は戻されている。天皇家は六家から秘伝書を借り受けただけで、取り上げたわけではない。それら各家の秘伝書がその後どのような運命を辿ったのかは、わかっていない。こうした各家の秘伝書がいわゆる古史古伝の原典となっている可能性はあります。

 

(注釈)天隠山(あめのかぐやま)理論

現代数学と物理を超越する理論で、その理論の真髄を古代の人々は会得し、上手に作物を収穫するとか、効率よく獲物を捕らえるとか、子孫を繁栄させ洪水や災害から命や財産を守り、優良な部族組織を維持していた。太陽や月の周期を計算し、天の回り、星の回り、気の回りに万物が感応することを識って暮らしに取り入れていたものです。

 

留意すべきは、「旧事本紀」に見られる卓越した表現力である。大和言葉を当時の外来語である「漢文」に置き換えるのでさえ大変な作業なのに、その漢文の完成度は非常に高い。これは、渡来系氏族である秦一族の力に負うところが大きいと考えられる。大和言葉と古代中国語、この二つの言語に精通した秦一族なくしては、この編纂事業は成し得なかったのです。

 

聖徳太子は「旧事本紀」七十二巻の完成を急ぎ、心血を注いだ。それはあれだけ膨大な書がわずか三年足らずで完成したことからも窺える。記紀では太子は推古三十年(六ニニ年)の二月に亡くなったことになっているが、「旧事本紀」ではその一年前、推古天皇の二十九年二月に没したと記録している。「旧事本紀」が完成したのは推古三十年だから、太子は完成した旧事本紀を見ることなく世を去ったことになる。そのため、秦河勝が序伝に書いているが、残されたスタッフたちは非常に苦労してこの書を完成させたというのです。

 

私たちはあの世からこの世へ生まれてくる前に、人生の計画書を作ります。その計画内容に沿ってこの世で行動するわけですが、私のような凡人はそれがぼんやりしか感じられなかったり、何を計画したのかも忘れて、日々をぼんやり暮らすことが多いのです。

 

太子はこれらの計画をしっかりと認識されていたので、自分が行わなければならない計画を遂行されたのだと思います。

 

その大きな計画の骨子は、「天皇を中心とする中央集権の律令国家体制づくりの基磯を築く」というものと、もう一つは「仏教を中心とする国づくりを行う」という二点ではなかったかと思うのです。

 

それまで、各地の豪族が各々支配してきた豪族連合の国家を、天皇中心の国家づくりをはじめて、天皇の確固たる地位をかためた点は太子の大きな功績ではなかったでしょうか。これにより、国家として安定したのです。

 

また、仏教を敬うことなどの役人の心構えを記した「十七条憲法の制定」を行い、「和を以て貴しと為す」という思想を広め、争いがなく、信仰心のある、温和な日本人をつくり上げる基礎を築き、仏教を中心とする国づくりを行ったのです。

 

日本という国にとって、歴史上これほどに貢献された人物はいなかったのではないかと、私は大いに感謝しています。

太子、ご苦労様でしたとお礼申し上げます。

 

すみません! 太子の未来予知能力について、書けませんでした。

改めて、後日に投稿します。あしからずご了解ください。

 

---owari---

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