今日は日下公人著書「『超先進国』日本が世界を導く」より転載します。
「武士は食わねど高楊枝(たかようじ)」は日本人の美意識であった。それは「人に頼らず」という自助の精神に支えられていた。貧(まず)しくともそれが立派な生き方なのだと思った。
旧民主党政権は、この「人に頼らず計画的に」という日本人の「中流」精神を「国民の生活が第一」というスローガンによって壊(こわ)した。いや、民主党に象徴される「戦後派」の価値観がそれを蝕(むしば)んできた。
明治の日本人はどうであったか、一つのエピソードを挙げよう。
慶応義塾がまだできたばかりの頃、池田成彬(しげあき)という学生がいた。ある宣教師が奨学金の話はつけてあるからといって米ハーバード大学への留学をすすめた。喜んで行ってみると、「いきなり支給する奨学金はない。まず一年間勉強して良い成績をとってからだ」というので池田は苦学生になった。
学生食堂で友人たちが食事をしているのに給仕をしたり、先生のために図書館へ行って本を取ってきたりスクール・ボーイとしての日々を送った。帰国する金もなく、貧乏(びんぼう)のどん底生活をしていると、見るに見かねて援助をしようというアメリカ人が現れた。
ここで池田が喜んで飛びついただろうと思ってはいけない。明治時代の日本人は根性があった。
「なぜ自分にカネをくれるのか」
「貧乏で見ていられないからだ」
「それでは困る。頭が良いからだ、といってくれ」
「それはまだ分からない。一年たって試験の成績を見なくてはいえない」
池田は、「貧乏が理由で他人からカネをもらっては物乞(ものご)いになる。自分は米沢藩の家老の息子で、もとはといえば武士である」といって奨学金を断り、結局、日本に帰ってきた。福沢諭吉塾長にその旨を報告すると、福沢は「それでは慶應で奨学金を出すからここの卒業生になりなさい」と笑っていった。
池田成彬は慶應卒業後、三井銀行に入って常務になり、やがて三井合名という持ち株会社の理事になり、昭和12年には日銀総裁、13年には大蔵大臣にもなったから、その根性と気位(きぐらい)の高さと頭の良さはダテではなかった。
---owari---
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