(自分の思いが「適正な範囲か」を自己点検するポイント)
何かを成し遂げたいと思う、その対象が素晴らしいものであればあるほど、一生懸命になるのは当然です。一生懸命になってくると、恋い焦(こ)がれてきますし、焦(あせ)ってきますし、何とかせねばという縛(しば)りになってきます。これはやむをえない面が、その性質上ありますので、どのあたりで「中道」というか、「適正な範囲か」ということを決める以外に方法がないと思うのです。
ですから、自己点検をすることです。
まず、自分の心の平静が害されていないかどうか。この点検を一つしてほしいのと、それと、他人との比較がものすごく気になっていないかどうか。他人との比較のようなことが気になっているのではないかということです。
それとあと一つは、はっきりと客観的に見て、「焦っている」と人が思うような状況でしかないのではないか、単なる焦りではないのかという点検は必要です。
本当は、素晴らしいものであれば、すぐに実現すればいいのだけれども、なぜ、それが何年も実現しないかということは、みなが非常に気になるところでしょう。ただ、自分の立場に立って見ているから、どうしてもそう見えることが多いだけで、過ぎ去ってみると、その道筋がよく見えることがあります。過ぎ去ってみると道筋がよく見える。
ですから、「現時点では見えないこともある」「現時点ではすべて見えないかもしれない」ということを、どこか心の
片隅(かたすみ)に置いておく必要があります。
(迷いのときには大局観を忘れないこと)
あともう一つは、やはり、自分には守護霊がついていますし、守護霊ができないことについては指導霊がついているんですから、自分の現時点の努力でできることかどうかを考えて、「努力できる範囲」と「努力を超えている範囲」のところをよく分けて、努力を超えている範囲のところについては、守護・指導霊によくお願いする、全託(ぜんたく)するしか方法がありません。
それは、あなただけではなくて、私だって一緒です。
「結論的には、十年後にはこうしたい。二十年後にはこうしたい」と思うけれども、現に、今時点ではどうすることもできません。そういうときには、自分ができる努力の範囲から先については、やはり全託の領域として、守護霊に、指導霊にお願いして、「どういう結論が出ましても、そのなかで自分としては最善の生き方をさせていただきます」という気持ちさえあれば、揺(ゆ)らぐことはないと思っています。私はそう思いますね。
あまり、つよく思いすぎると執着になるのです。あまり考えすぎるとね。ですから、方向性だけしっかりしていれば構わないのです。途中の紆余曲折(うよきょくせつ)や、少々の手段、方法については、どうであっても構わないのです。
結局は、「大局観」を忘れないことです。そういう迷いのときには、大局観というものが大事です。大局とか小局、これを見分ける目ですね。大局観だけしっかりしていれば、小さなところ、小さな戦局では負けたとしても構わないのです。小競(こぜ)り合いとか、いろいろなところでの少々の敗北も、また可なのです。
大局で負けてはいけないので、大きなところだけガチーッと押さえておけば、小さなところでは「まあ、いろいろあるわなあ」と思うぐらいが、これが「肚(はら)」というんですね。肚のできた人間だと容量が大きくなり、許せる範囲が大きくなるのです。そうすると、また、成功していく可能性も強くなっていきます。
あまり自分で狭くしていくと、成功する可能性は少なくなっていきます。ですから、「肚のできた人間」「大局観のある人間」になっていくことだと思います。これだけを注意すれば、あとはあまり考えすぎないことも大事だと思います。
---owari---
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