先の分類におけるBグループは、
「いえばすぐわかる部下」
である。
このグループは、いつ、いかなる時代でも主君に忠節の限りを尽くす。
「君、君たらずとも、臣は臣たるべし」
という古風な武士道をつらぬく部下だ。
その中で前田利家は信長の古い家臣である。しかも秀吉の大先輩である。
したがって、
「いえばすぐわかる」
という、そのわかり方は、単に信長の、
「黙って、おれについて来い!」
という、いわば〝説明不足″の部分を補足してもらえば、
(ああ、そういうことか。よし、わかった、やろう)
と意気込む、ということではない。いや、そういう理解のしかたもあるが、それ以上の意味がある。
信長は、秀吉という農民の子と、光秀という浪人を左右両翼に据えて重用した。信長の指示・命令のかなりの部分は、この二人の意見によって出てくる。
柴田勝家や滝川一益などの重臣群にとってこんなことが面白いはずがない。秀吉や光秀は当然憎まれ、嫉妬され、また、その出身の卑しさを笑われる。
秀吉など、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」を頂いて自らの姓を「羽柴」と名乗るほど、先輩たちに気を使った。それでもいじめられる。いじめられても秀吉は傷つくような人間ではない。しかし、部将たちが反目し合っていては戦に勝てない。信長は能力王義で武将を登用したから、勢い武将間の出世競争は激しい。
そこで、中和剤が必要となる。
その役割を果たしたのが前田利家だ。
利家は、イキリ立つ同僚たちを、
「まあまあ、そういわずに」
となだめ、
「信長公のために、ここはひとつ奮発しようではないか」
と協力させる。
何しろ利家は、少年時代からの信長側近である。柴田勝家が織田家の家督争いでまだ反信長派についていた頃から、信長を守ってきた。弘治二年(1556)8月、柴田勝家が反信長の挙兵を行ったとき、前田利家はこれと戦って右眼を失っている。
勝家も、利家には頭が上がらない。
利家は、若い頃は乱暴者で通っていた。虎の威を借りていばる信長の寵童(ちょうどう:女役をする子供のこと)を斬殺(きりころ)して出奔(しゅっぽん)したこともあったほどである。それでも、桶狭間戦の際には、追放中にもかかわらず勝手に参戟するほど、信長には忠義を尽くした。
信長の死後は、かつては自分の部下同様であった秀吉に仕え、しかもその遺児秀頼に対し本当に親身になって尽くした。誠心誠意を絵に描いたような人生である。
信長は、利家はじめBグループの部下の、こういう誠実な特性をよく知っていた。だから彼らを安心して使った。
Bグループの人びとがいたため、異例の出世をした秀吉・光秀の二人がどれほど助かったかわからない。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます