「藤吉郎がそなたに不足を申すなど、言語道断である。けしからん。どこを探しても、あのハゲネズミがそなたほどの女性を求めることができるものか」
ここまでは、実は前置きである。いよいよ本論に入る。本論に入るために、論理的に、しかも説得力をもった褒め方をしてきている。
「だから、今後は、気持を陽快にして、奥方らしく重々しく振舞い、やきもちなどやかぬようにしなさい。ただし、女の役目はちゃんと果たしなさい」
これを言いたかったのである。安土で信長に会ったとき、ねねが愚痴の一つもこぼしたのかも知れない。
「お前ほどの女がヤキモチなどやくな」
というのがこの手紙の主旨である。最後に、
「この手紙は藤吉郎にも見せなさい」
と添えている。
「そして、仲直りしなさい」
という意味である。
天下泰平の現代でさえ、夫婦喧嘩は犬も食わないという。それを、血で血を洗う殺りくを繰り返す生活の中で、信長は、藤吉郎夫婦の融和を図ったりしたのである。
そういえば龍馬も、動乱の世をよそに、おりょうと新婚旅行をするような近代的センスを持っていた。幕末の志士の多くが女を愛玩の対象としか見ない世の中で、友達付き合いをする進歩性をもっていた。
信長は、さすがにそこまではいかない。しかし、この、ねねへの手紙は、戦国大名としては異色の女性観を示している。
ねねという女性を一個の人格として尊重している。
そのうえで、精いっぱいの説得を試みている。温かさと親しみと誠意に溢れる、良い手紙である。
いつも苛立っている信長が藤吉郎だけはなぜかウマが合って気を許せる相手であるという前提は確かにあった。藤吉郎がまた誠心誠意、信長に尽くし、その有能さと相まって信長にとって貴重な存在であるということもあった。ねねが賢くて、気むずかしい信長を十分満足させたということもあった。
そういう条件のもとにこの手紙が生まれたことは否定できない。
であるとしても、信長が、優しく、ていねいに、一人の女性の気持を解きほぐそうと努力したのである。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
---owari---
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