(「Aの幸福はBの不幸である」という考え方に欠けているもの)
それと、もう一つ、これは哲学的な考え方にもあるのですが、個々をバラバラに見ていく考え方が一つあるのです。
例えば、「Aの幸福はBの不幸である」というふうな考え方があると思うんですね。マルクスの考えなどもそうです。「ある人が幸福になれば、それで損をする人が出る。傷つく人が出る」という考え方です。これはわりあい多くの人間の頭のなかに入っている考えでもあるのですが、はたしてそうだろうかということです。
この考え方でいくとどうなるかというと、例えば、会社勤めをしていると、「自分が出世すると、ほかの人の出世が遅れる」という考え方が出ます。「自分が課長になれば、誰かが課長になれない」と。いいですか。「自分が結婚すると、その結果、誰か結婚できない人が出てくる」と。こういうふうに考えていく人がいるのですが、絶対に「幸福になれない」症候群の一人です。間違いないです。そうなのです。もう全部、こうして退却していくのです。
これは、外面的にはたいへん美しいようにも見えるのですが、実際的によくよく見てみたら、いったい何であるかというと、結局、一つには「勇気」がないのです。「自分を幸福にすることは悪いことだ」というような感じがして、何か勇気がないのが一つ。
もう一つは、「責任」がないですね。責任を取る感じがないのです。結局、「自分が課長になったら、ほかの人がなれなくてかわいそうだ」と言うけれども、実は、課長になって人を指導して仕事をしていくだけの責任を取る気がないのです。そういうことです。自分がかわいいから、一人になっておきたいのです。そういう考え方があります。
(「一つのなかに、すべてを見いだしていく」という考え方もある)
また、これの変形として、こういう考え方があります。
例えば、「男性が女性と結婚する」という問題を考えると、性格の若い人がいればどうなるかというと、「僕は君が好きだけれども、僕と君が結婚するということは他の女性を悲しませることになってしまう。他の女性のチャンスを奪ってしまうことになる。だから僕はしない」と。まあ、こういう考え方をする人もいるのです。
あるいは、「あなたは僕と結婚したいとおっしゃるが、私は“全人類の女性”を幸福にしたいのであって、一人の女性を幸福にしたいという気持ちはないのだ。そういう気持ちは、一つのエゴだと思う。だから、私が一人の女性であるあなたに奉仕するということは、これは全人類の女性を悲しませるし、人類の女性全体を愛したいと思う私の正直な心に反する」と。
こういう考え方をする方も、なかにはいらっしゃるのです。これは、選択的に物事を考えていく傾向の人が陥(おちい)りやすい罠(わな)なのです。
ただ、思うのですが、「一つのなかに、すべてを見いだしていく」ということも可能なのです。「一つのなかに、すべてを見いだしていく」という心、これは可能なのです。
例えば、シャンデリアのような光があったときに、「これ全部に灯をつけなければ、シャンデリアではない」という考え方をする方もいらっしゃると思うのですが、「少なくとも、シャンデリアの明かりの一つであっても、これを力一杯に輝かせることが、結局、神様の光をちりばめていることになるのだ。一つのなかに、すべてがあるのだ」という考え方もあるのです。
「自分自身のなかには、実は全宇宙も入っているのだ」という考え方もあります。また、「一人の女性のなかに、実は人類の女性すべてが入っているのだ」という考え方もあるのです。
一人の女性を幸福にすることによって、実はその波及効果というのはあるのです。そういう夫婦が生まれたということ自体が、小さいながら「世を照らす光」となっているのです。
それはどういうことかというと、あるところで仲のいい、仲睦(なかむつ)まじい夫婦が出たとするならば、他の人々は、それを見てどうするでしょうか。自分たちが仲良くないならば、それを恥(は)ずかしいことだと思うでしょう。
そうすれば、この一つの夫婦愛というのが、もっと大きなものとして広がっていくわけです。「ああいうふうになりたいな」と思う人がいっぱい出てくると、やがて、あちらでもこちらでも愛し合う夫婦が出てくるのです。
実は、一つのなかにすべてをつくっていく道筋もあるのだということなのです。
---owari---
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます