(なぜ「自分だけよくなってはいけない」と考えてしまうのか)
イエスの言葉に「私は自分が神の子であることを信じます。自分が神のただ一人の愛する子であることを信じます」とありますが、この言葉が引っ掛かって、「こういう大それたことはなかなか言えない。他の人々も神の愛する子ではないか」と思ってしまわないでしょうか。
そう思う場合は、一つの“罠(わな)”に、今、入っていると思われます。この罠というのは、宗教的人格特有のものなのです。宗教的人格特有の罠は「優しさの罠」というふうにいわれるのですが、優しい性格を求めていくがゆえに、不自由な生き方をするのです。そして、いろいろなところで“落とし穴”に入っていく性格なのです。
例えば、今のようなことと同じで、「神の独(ひと)り子(ご)として」というだけで引っ掛かります。「ほかの人はどうなっているのか。ほかの人がかわいそうじゃないか」と、こういうふうに考えていきます。これは罠なのです。いちばん陥(おちい)りやすい罠なんですね。気をつけなければいけないのです。
結局、「すべての人の幸福」とか、「すべての人のために」ということだけを抽象的に漠然と考えることはできるのだけれども、「人間」という観点が落ちていく人たちなのです。「人間は、個別に魂修行をしている」という点を落としてしまって、「みな同じようにしなければいけないのではないか」という衝動に駆られてくるのです。
そうすると、ここから罪悪感も出てくるのですが、「自分がよくなってはいけないのではないか」というような気持ち、あるいは「特定の人がよくなってはいけないのではないか」という気持ちが出てきます。
これは、内なる罪悪感の表れなのです。あなた自身のなかにあるのです。罪悪感があるのです。「自分だけよくなってはいけないのではないか。少しでも不幸な人がいたら、自分がよくなってはいけないのではないか」という気持ちが、あなたのなかにあるのです。
(「自分自身を幸福化する」ことが、まず最初の責任である)
ただ、「幸福」というものは、どこかに漠然と抽象的にあるのではないのです。漠然と「全体の幸福」というものがあるわけではないのです。やはり、その全体の幸福をつくっているものは、個人個人なのです。「個人個人の幸福の集合体」なのです。
そして、人間がいちばん大事にしなければいけないことというのは、「個性を持って魂修行をしているということは、まず自分自身に対して責任を取らなければいけない」ということです。「自分自身を幸福化する」ということが、まず最初の責任であるわけです。各人が自分に点灯していくということを通じて、本当に全体の幸福が広がってくるのです。
ですから、「あなた自身が光を点灯せずして、他の人の光がつくのを待っている」という状況は、これはほかの人も同じことをしたらどうなるかを考えてみればよいのです。
ほかの人も、「他の方が光を点じたら、自分も点じよう」と思っている。そうなると、あの人もこの人も待っていて、結局、光が灯らないんですね。待っているだけなのです。それで誰かが点灯し始めると、「いや、今、あの人が点灯したけれども、自分が続いてやるのは、やはりちょっと行きすぎなので、みんなが終わってから点灯しよう」と、こういう考えが出てくるのです。
こうしていくと、いつまでたってもロウソクの火が灯らないのです。ですから、遠慮しないで勇気を持って自らに火をつけることです。
この「独り子」というのは、やはり強調の言葉なのです。強調の言葉を言っているのです。決してほかの人を排斥(はいせき)する言葉を言っているのではなくて、「それほどまでに、神と自分が一体化している」ということを言っているのです。
「そう思いなさい。独り子と思うことによって、神様からの強い愛が流れ出ているということを感じられる。受けとめることができる」と。そういうことなのです。「それほどまでに愛されている自分ということを発見しなさい」という意味であって、他の人を排斥する意味ではないのです。
---owari---
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