⑤今回のシリーズは、徳川家康についてお伝えします。
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おそらく信玄は、あなたのおられる浜松城を攻めることなく、遠くを通過するはずだから、そのまま見過ごしてください。決して手を出さないように」
と告げた。が、家康は考えるところあって、この信長のことばには従わないつもりでいた。
それは、
「たとえ信玄が浜松城の北の道を通るとしても、自分にとつては庭先を荒らされるようなものだ。黙って見過ごすわけにはいかない」
ということと、同時に、
「たとえ負け戦でも、この合戦をきっかけに徳川家が主従一体となる心の結束を固めるのだ」
と思っていた。
そして、このときの家康は、
「たとえ部下が裏切っても、自分はぜったいに部下を裏切らないという証拠をみせるのだ」
と意気込んでいた。だから三方ケ原の合戦は徳川家康がはじめから、
「負け戦を承知で、打って出る」
という積極的な合戦であった。
武田信玄は信長がいったとおり浜松城の北方を通過しようとした。信玄軍が通過しはじめると家康はすぐ、多くの部下の反対を押し切って、
「信玄軍になぐりこみをかける」
と発表した。部下たちはおどろいた。しかし一部の部下たちは、
「たのもしい大将だ」
と思った。家康はこのとき三十一歳である。
相手の武田信玄は名将の名が高い。それに家康軍はせいぜい八千、信玄軍は二万だ。数の上でもかなわない。しかし家康は打って出た。そしてさんざんに敗れた。
が、この合戦では家康は先頭に立って、みずから敵陣に切り込んだ。そして敗れたのちも、最後まで踏み止まって部下を安全に逃がした。この姿をみていた部下たちは感動した。
「この若い大将は、部下を決して見殺しにしない。たよりがいのある大将だ」
と感じた。すでに、
「武田信玄の大軍にはかないっこない。それなら信玄についたほうがいい」
といって家康を裏切り、武田軍にまぎれこんでいた部下たちも、徳川軍の先頭に立って戦う家康の勇姿をみて、考えを変えた。
「自分たちがまちがっていた。家康様はたよりがいのある大将だ」
と考え、どんどんこっち側へ戻ってきた。
敗れはしたが、この合戦によって徳川家康の武名が上がった。
家康は、どんな窮地(きゅうち)に陥(おちい)っても籠城(ろうじょう)などせずに、武士の面目にかけて堂々と打って出た。
しかもふつうなら、大将はいちばん後で待機しているのに家康は真っ先に敵陣に切り込んだ。
戦に敗れたあとも、部下のひとりひとりの無事を見届けるまでは戦場に踏み止まっていた。
家康を裏切った部下はたくさんいたが、家康自身は決して部下を裏切らなかった。部下を見殺しにはしなかった。
ということで、諸国の大名のあいだに、
「徳川家康は律義な大将だ」
という評判を高めた。この、
「律義な徳川家康」
という評判はその後の家康に終始まといつく。
(『歴史小説浪漫』作家・童門冬二より抜粋)
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