(あなたは、「感情・知性・理性・意志」のどの面が強く出ているか)
「喜怒哀楽(きどあいらく)」を中心とした「感情」の動きも、そうした「理性」「知性」の動きも、「意志力」も、大きな意味で言えば、これはすべて人間の魂の動きの一部分ではあるのです。そして、その人がどこを中心に鍛(きた)えたかによって、「どの面が強く出てくるか」ということが分かれてくるわけです。
例えば、理数系をやりすぎた人は、「理性」が強くなっていき、どちらかといえば、他人(ひと)から「心がない」というように言われることがあります。
そういう人は、感情の領域が下のほうに沈(しず)んでいき、物事を知性的、理性的に考えるようになるのです。あるいは、学問的に考えるようになったためにクールになり、「こういう言葉を使ったら人が傷つく」などといったことが分からなかったりします。
また、音楽を聴(き)いても、「楽しい」とか「素晴らしい」などと感動する前に、まずは、「モーツァルトはこうで、バッハはこうで、ベートーヴェンはこうで・・・・・」というような講釈(こうしゃく)を始め、それを学問的に解説することが音楽だと思ってしまったりすることもあります。
それから、楽器を使って音楽を奏(かな)でたとしても、唯物論(ゆいぶつろん)的に、楽器がバラバラに機能しているだけにしか聴こえない「耳」もあるでしょう。逆に、それらの組み合わせによって、ある種の「美」や「調和」が生み出されていることを感じ取る面もあるでしょう。
(「感情・知性・理性・意志」を協調させて、心を豊かに)
そのように、何かの面が強くなると、ほかのことが分からなくなることもあるのです。
そのため、魂のいろいろな面を磨きながら、それらを協調させていき、トータルで物事を見ていく力が必要になります。そのような力がついてくると、「心が豊かになってきた」と言われるようになるのです。
本能的に行けば、自分の「快・不快」を中心にすることでしか物事を考えられない人間が多くなるでしょうけれども、「知識」や「理性」に加えて、「経験」による磨きがかかり、経験的に物事を考えられるようになっていくと、それ以外の面も見えてきます。
ですから、他人がある事柄(ことがら)について成功して喜んでいても、「それは、もしかしたら、あとで困ることになるかもしれない」といったことが分かるようになるわけです。
(運命を見通す、人間としての賢さ―「人間万事塞翁が馬」の人間訓)
これは、「運命」ともかかわってくるものかもしれません。
例えば、「馬を飼っていたのに、その馬が逃(に)げてしまった」ということであれば、財産的にはロスになります。それは、残念なことなので、普通は怒(おこ)ったり悲しんだりしなければならないところでしょう。しかし、いろいろな経験を積んだ人にとっては、それが違って見えることもあります。
その馬を飼っていた老人が、「馬が逃げたといっても、次は、もしかしたら、よいことがあるかもしれない」と言ったとします。そして、次の年になると、その馬が子馬を連れて帰ってくるようなこともあるわけです。そうすると、「ああ、悪いことだと思っていたのに、子馬を産んで、馬が増えて帰ってきた」となります。これはよいことでしょう。
ところが、「財産が増えたから、これでいいじゃないか。よかったね」と周りの人々が言っていると、その老人が今度は、「いや、これは悪いことが起きるかもしれない」などと言うわけです。それで、周りが「何のことかな」と思っていたら、老人の子供が馬に乗って駆(か)ける練習をしているうちに、馬から落ちて足を折り、片足が不自由になってしまいます。
「ああ、本当だ。よいことだと思っていたら、今度は悪いことが起きてしまった。馬などいなければ足を折らなかったのに」と思って、周りの人々が「これは悪いことが起きましたね」と言うと、老人がまた、「いや、息子は足を引きずるようになってしまったけれども、これがよいことにつながるかもしれないよ」などと言うわけです。
これは、「快・不快の原則」からすると、まったく逆のことを言っているので、人々は「不思議なことを言っているな」と思うでしょう。
そして、しばらくすると、戦争が始まり、若者はみな戦争に行って、隣(となり)近所の男の子たちは全員死んでしまいます。しかし、その老人の息子は足を引きずっているため、戦(いくさ)に出なくて済み、家に残って、親の老後も見てくれるようになりました。すると、今度は、それがよいことになるわけです。
このように、経験というものが乗ってくると、「快・不快の原則」を超え、物事がどのように起きてくるかが経験知的に分かるようになってきます。
中国の故事(こじ)に、「人間万事(ばんじ)塞翁(さいおう)が馬」(淮南子(えなんじ)―人間訓)というものがありますが、これは先ほど述べたような、塞翁という老人が飼っていた馬の話を例にとってできたものです。経験的な考え方としては、そういうことです。
---owari---
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