学校の教科書にも載っているこの有名な詩はご存知の通り、童話作家であり日本の詩人である宮沢賢治さんの詩です。
この詩は、賢治が上京して再び病に倒れ、岩手の花巻の実家に戻って闘病中だった1931年秋に使用していた黒い手帳に記されていたものです。
この手帳の存在は、賢治の生前には家族にすら知られておらず、未発表のままでした。
この手帳が発見されたのは、賢治が亡くなった翌1934年2月に東京・新宿で開催された「宮沢賢治友の会」の席上である。
この会合には、招かれた賢治の弟・宮沢清六が賢治の遺品である大きな革トランクを持参していた。席上、参加者の誰かがこの革トランクのポケットから手帳を取り出し他の参会者にも回覧された。
その模様を、同席していた詩人の永瀬清子が後に「この手帳がこの夜のみんなの眼にはじめてふれた事については疑いがないように私は思う」と書き記している。
さて、詩の内容は多くの人に輝きを与え、今もなお人びとの胸を打っているのです。
私はこの詩には、人間としての理想像が書いてあると思っています。
確かに、この詩の内容は、仏教の悟りたる人を指し示しているように感じます。
賢治はこの詩を自分が目標とする理想像として、書き留めたのではないでしょうか。
だから、賢治はこの詩(手帳)を公表することなく、自分だけの持ち物としていたのです。
それはあたかも、賢治自身のお守りとして、仏教のお経(経典)として、使っていたのではないでしょうか。
その詩の内容には、そうなりたいと念じていた賢治の生きざまが伝わってきます。
もう一つの視点は、賢治は明治三陸大津波・陸羽地震の年に生まれ、昭和三陸地震・大津波の直後にこの世を去りました。震災に非常にご縁のある方と思います。
この大きな震災で被災した東北の人びとの心を癒す詩として、天が与えた精神の支柱ではなかったかと感じるのです。
それは現在の東日本大震災の被災者の皆様にも心の支えとして、勇気と癒しを与えています。
賢治の言葉は、何を強いるわけでもなく、誰に求めるわけでもなく、被災された方々、それを見守る方々、そこに向かう方々、一人ひとりの、一つの心の置き場所として、深く響いているのです。
そして、賢治の作ったこの理想郷は、東北の人びとの規範(手本)となり、今も脈々と伝わっているのです。
それが、あの東日本大震災で見せた東北の人びとの冷静で、規律を守り、助け合い、支えあった行動につながっていると思います。世界中の人々がそのことを称賛したのです。
今もなお、賢治の心は確かに生きていると感じるのです。
『雨にも負けず』
雨にも負けず
風にも負けず
雪にも夏の暑さにも負けぬ
丈夫なからだをもち
慾はなく
決して怒らず
いつも静かに笑っている
一日に玄米四合と
味噌と少しの野菜を食べ
あらゆることを
自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり
そして忘れず
野原の松の林の陰の
小さな萱ぶきの小屋にいて
東に病気の子供あれば
行って看病してやり
西に疲れた母あれば
行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば
行ってこわがらなくてもいいといい
北に喧嘩や訴訟があれば
つまらないからやめろといい
日照りの時は涙を流し
寒さの夏はおろおろ歩き
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういうものに
わたしはなりたい
---owari---
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