(「解決できる可能性」があるからこそ悩む)
今回は、「運命の大波にもまれながら生きる」という題で述べていきたいと思います。
こういう題を付けると、みなさんは、「鳴門(なると)の鯛(たい)が渦潮(うずしお)にもまれるような、上がったり下がったりする運命がなければいけない」という印象を受けるかもしれませんが、過ぎてしまえば、すべては思い出になり、美化されていくものです。
ただ、それぞれの時点においては、かなり厳しい局面に立たされているように感じるでしょう。あとから見れば、取るに足らないようなことであっても、そのときの自分にとっては、人生の一大事のように見えるものです。
私も、以前は、みなさんと同じように、悩みや苦しみを感じて悶(もだ)えていた一人でした。
結果や結論が出てしまえば、どの問題も、どうと言うことはないものなのですが、現在ただいまの問題は、誰であっても、非常に大きな問題として感じられるのです。
はたから見れば、それほど大きな問題ではなく、よくある話であることが多いのですが、本人は、ものすごい大波に揺(ゆ)られているように感じていることがあります。
ただ、教えとして述べておきたいことは、「いかにして、現在ただいまの問題を、ものすごく大きな波、ビッグ・ウェーブのように感じるのではなく、小さな波のように感じるか。さらには、平(たい)らかで穏(おだ)やかな海のように見える心境になるか」ということです。これが、実は、宗教的な修行の要点でもあるのです。このことを知っていただきたいと思います。
この世に生まれて、悩みのない人はいません。悩みなくして人生を終える人は、おそらくいないでしょう。「悩んでいる」ということは、「自分は、今、生きている」という証拠(しょうこ)です。
悩みがなくなれば、それは、もう、この世とおさらばしなければいけない時期であるわけです。「今、悶々(もんもん)と悩んでいることがある」ということは、「まだ自分は生きている」ということなのです。
さらに、「悩む」ということは、「考え方によっては、解決できる可能性がある」ということでもあります。
それは、「運命の大波、あるいは、『神々の試(ため)し』に対して、どこまで耐(た)えられるかを、今、自分自身で確かめている」ということでもあるのです。
(進むべき方向を判断するためには)
私自身を振り返ってみても、二十代のころには、やはり、現実生活のなかにおいて悩みが消えることはありませんでした。「一つの波を越えたら、次の波がやってくる。それを乗り越えたら、また次の波がやってくる」という感じだったのです。
ここで大事なことは、「海で泳いでいるときに、『どちらが沖(おき)で、どちらが浜辺(はまべ)か』という方向だけは間違ってはいけない」ということです。
大波は来ます。そのとき、沖のほうに泳いでいったのでは助かりません。しかし、浜辺のほうに向って泳いでいけば、必ず、いつかは、その大波から逃れることができるのです。
向うべき方向の選び方は二者択一(にしゃたくいつ)です。したがって、「方向だけは間違えてはならない」と考えなければいけません。
それでは、大波にもまれているときに、「自分は、今、浜辺のほうに向っているのか。あるいは、沖のほうに向っているのか」ということを、どのように判断すればよいのでしょうか。
信仰の立場から見て、「自分が進むべき方向であるのか。それとも、行ってはいけない方向であるのか」ということを判断すればよいでしょう。信仰に基づいて判断すればよいのです。
信仰に基づいて「正しい」と思う方向であれば、大きな波が来ても、迷わずに泳ぐことが大事です。逆に、「信仰に反する方向である」と思えば、それは間違っている方向なので、引き返さなければいけません。
単純ですが、このポイントを覚えておかないと、大波にただ翻弄(ほんろう)されるだけの人生になってしまいます。しかし、そうであってはいけません。
---owari---
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