このゆびと~まれ!

「日々の暮らしの中から感動や発見を伝えたい」

愛に生きよう ①

2018年03月27日 | 人生

今回のテーマは、

□「夫や妻に、愛されていない」と感じているあなたへ

□「家庭や学校になんとなく居場所がない」と思っているあなたへ

□「職場での対人関係に悩んでいる」あなたへ

□「誰かに愛されていないと不安な、“恋愛依存症”気味な」あなたへ

□「子育ての指針がほしい」あなたへ

2回に分けてお送りします。

 

(最初に伝えたいのは「愛の教え」)

「愛の教え」とは、どのようなものでしょうか。

「愛」については、特に、若い人の場合、「愛とはもらうものだ」と考えているかもしれません。しかし、それは「奪う愛である」と今まで述べてきました。

 

ただ、かつての私もそうでしたから、みなさんのことを責める資格はまったくありません。十代から二十代ぐらいは、「愛とはもらうものであり、人から与えられるものだ。人から愛をもらえたら幸福で、もらえなかったら不幸だ」といった思いが強くあるものです。

 

これは教わらなくとも、本能的にそのように感じるものなのでしょう。自然に、そう感じるのだと思います。

 

考えてみると、子供というのは、親から愛をもらってばかりいる存在です。子供は、親から愛をもらって成長していくことを当然だと思っていて、親に愛されないと、暴れたり、悪さをしたり、欲求不満を起こしたり、いろいろといたずらをするものです。

 

ところが、そうした「子供時代の気持ち」が、大人になっても続いていることがあります。十代の後半から二十代になれば、十分に大人であるのですが、赤ちゃんのころから、親が自分をかわいがってくれたことを当たり前のように思って育ってきているため、愛をもらえなくなるとつらいのです。

 

それと同じように、友達からも愛されたいし、先生からも愛されたいし、社会人になってからも、会社の同僚や先輩、上司、あるいは、社外の人からも愛されたくて、「愛が欲しい、欲しい」と思うのです。

 

そして、人からほめてもらったり、評価してもらったり、具体的に物をもらえたり、お金をもらえたり、何かをもらえると、うれしいわけです。

 

(「愛されたい人」には誰が愛を与える?)

今、述べたことは普通のことで、これを否定する気持ちはありません。そのとおりであろうと思います。例えば、ポンと百万円をもらって、うれしくない人はいないでしょう。もらうということは、うれしいことであり、とてもよいことのように思えます。

 

しかし、ここに問題があります。それは、「すべての人が、成長して大人になっても“子供”のままで、『人から愛されたい』と思っていた場合、その愛を与える人は、いったい誰なのか」という問題です。

 

もちろん、そこには、「神仏の愛」というものがあるでしょう。ただし、神仏の愛は目に見えません。その目に見えない神仏の愛を具体化するのが、実は信仰者たちなのです。信仰を実践している人たちが、神仏に成り代わって、その愛の姿、つまり、人に愛を与える姿をお見せすることが大事であるわけです。

 

もし、「愛をもらいたい」と思う人ばかりになったら、この世は「餓鬼地獄」です。みなが「欲しい、欲しい」「おなかが空いて苦しい」「食べたい、食べたい」というような人ばかりになったら、そうなります。

 

やはり、誰かが作るほうに回らなければいけません。“ごはんを作って提供する側“に回る人が要るわけです。

 

「愛が欲しい」という人が世の中に満ちているのなら、誰かが愛してあげなければいけません。その「愛してあげる人」をつくっていくことが大事な仕事であり、それが神仏の願いでもあるのです。

 

神仏は、常にそういうことを考えていますが、具体的なことは地上の人間の手を通し、口を通し、行動を通して実現していこうとしています。そして、それが、「宗教の使命」でもあるということです。

 

--owari---

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 憎しみを押し流す「愛の大河」 | トップ | 愛に生きよう ② »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

人生」カテゴリの最新記事