(天使たちの存在を知ったときの驚き)
私自身も若いころは思い違いをしており、「愛はもらうものだ」という考え方をしていましたが、その考え方が少しずつ、違うものになっていきました。
そのころに、「他力」という存在、つまり「偉大なる霊界があり、高級神霊がいる。彼らは、地上の人たちを見ており、指導して助けようと思っている。そういう気持ちで見守っている」ということを知ったわけです。それは大きな驚きでした。
この世の人は、そうしたことをまったく感じないのですから、はっきり言って、高級神霊は「姿なきもの」でしょう。そういう見たこともない、聞いたこともないような存在が、実は、この世の人を幸福にしようとして、一生懸命に護ったり、指導したり、光を与えたりしようとしていたことを、知ったのです。
「自分は一人で苦しんでいたつもりだったけれども、一緒になって苦しんでいた天使や菩薩がいたんだ」ということを知ったとき、私は人間として、一種の「改心」をしました。
これは、「心を改める」と考えてもよいですし、「クルッと回る」という意味での「回心」と考えてもよいのですが、とにかく、心がクラッと変わったのです。
「そうか。目に見えない世界から、この地上に生きている人たちを護っている、そんな仕事をしている存在がいるんだ。天使や菩薩、如来たちが現実にいるんだ」と知ったことは、私にとって「驚天動地」というべきものでした。
(身近なところから愛を具体化してみよう)
「愛」について、「人を愛し、人を生かし、人を許せ」という言葉が信条だったのですが、みなさんにお伝えしたいことは、「愛というものを抽象的にではなく、もっと具体的なものとして捉えていいですよ」ということです。
「自分は何ができるか」「自分としてできることは何か」ということを、具体的に考えてもらってかまわないのです。
やはり、いちばん簡単に対象が見つかるのは、家庭のなかでしょう。「妻の夫に対する愛」や「夫の妻に対する愛」、「親の子に対する愛」や「子の親に対する愛」などがありますが、家庭のなかがいちばん手近なところではあります。その次が、家庭の外の人ということになるでしょう。
したがって、まずは、「家庭のなかで具体的にできることはないかどうか」と考えてほしいのです。「やれること、やるべきことはないか」「本来ならやれるのに、やっていないことがあるのではないか」「それは自分の心の持ちようによって、そうなっているのではないか」ということです。
例えば、本来なら、ほめてあげるべきところをほめずにくさしたり、怒ったりしていないでしょうか。一生懸命、頑張った子供に対して、「私の要求はもっと高いから、あんたなんか駄目よ」という感じで、叩き落としたりしていないでしょうか。
それは子供だけでなく、ご主人に対しても同じことですが、そういうことはないでしょうか。
(「親に愛された」という気持ちは必ず残る)
確かに、子供というのは、なかなか親に恩返しができずに、奪い続けているようなところがあります。しかし、やがて大人になると分かるのですが、やはり、「親の愛」というのはありがたいものなのです。
親が与えたものが、直接、親に返ってくることはないかもしれないけれども、それは、子供が社会のなかで生きるときに、ほかの人に対する優しさや、「人のために尽くす」という気持ちに、必ず転化していくのです。
そういう意味で、「親の愛」が死ぬことはありません。必ず残ります。「親に愛された」という気持ちは必ず残るものなのです。
親に愛された気持ちを、直接、親に返せるかどうかは分かりません。現実には返せないことのほうが多いのかもしれません。
返そうと思ったころには、親がボケていたり、おかしくなっていたり、事業が傾いていたり、死んでいたり、病気になっていたりして、昔のままの親ではないこともあります。お返しをしても、それが親に分からない状態もあるのです。
それでも、「親が子供を愛しておくことは、子供にとって、将来、人に愛を与えるための大きな大きな原動力になるのだ」ということを知っておく必要があると思います。
(ハッピーになるためのポイント)
・愛とは奪うものではなく、与えるものであると、まず知ること。
・見返りを求めずに、自分から愛を与える。
・目に見えない世界には、見守ってくれている存在がいると信じる。
・家庭内など身近なところから具体的に愛を実践する。
・人間的な“ホットな部分”や“情愛”を大切にする。
---owari---
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