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人生の目的

2017年07月25日 | 人生

「世の中を素晴らしいものにしよう」と願っている人は数多くいます。そして、おおよそ世の中で役に立つ仕事に従事している人であれば、その人が気がつくかどうかにかかわらず、その仕事のなかには必ず愛の思いがあります。

 

「あなたは、愛を持って、その仕事をしておられるのですね」という言葉をかけられれば、おそらくは、照れくさく思う人もいるでしょうし、はにかみを隠せない人もいるでしょう。あるいは、「いいえ、そのようなものではありません。ただ、仕事が好きだからしているのです」と答える人もいることでしょう。

 

しかし、断言してもよいと思うのですが、この地上でほんとうに役立つ仕事、有用な仕事は、必ず愛に裏打ちされているのです。「人々の役に立ちたい」という思いからなされる仕事は、必ず人々の役に立つ仕事なのです。

 

たとえ本人はそう思っていないとしても、優秀な頭脳とたぐいまれな行動力をもって人類に貢献するような仕事をしている人は、ある意味において、無意識のうちに愛を実践していると言えるかもしれません。

 

もちろん、無意識のままに愛を実践するよりも、それが愛の実践であるということを知っているほうが喜びを感じることは、言うまでもありません。「これが愛の実践なのだ。これが、仏の子の使命なのだ」と知ったときに、人間は聖なる喜びを感じるのです。

 

この聖なる感慨、清く、穢れなく、この世のものとは思えない聖なる感覚を、多くの人間が忘れて、どれほどの歳月が過ぎ去ったことでしょうか。

 

聖なる思い、聖なる一時のうちに歩むとき、人間には、つまずきがありません。すべての人が、無垢なる姿で、優しい光に包まれて生きていると言ってもよいでしょう。

 

しかし、思い返してみれば、この地上で生きていくことは、なんと難しいことでしょうか。

 

幼子のときには、あれほど無邪気で、無心で、ひたすらだったのに、やがて成長すると共に、心は穢れ、他の人々を信じることができなくなり、駆け引きが多くなり、心にもないことを語らねばならなくなり、あるときは、思わず知らず、他の人々の失敗や不幸に、ほくそえんでいる自分に気がつくことでしょう。

 

「ああ、自分の両親が、赤ん坊の自分をかわいがってくれたとき、このような自分、他に対して与えることは少なく、害することのみが多い自分を、愛してくれたのだろうか。いや、そうではなかったに違いない」と感じる人も数多いことでしょう。

 

いったい何が原因なのでしょうか。大部分の問題は、この世の価値観というものが、本来のものから、ずいぶんずれているために生じているのです。

 

この世の価値観とは、「この世的に偉くなりたい。他の人よりも偉くなりたい。他の人よりも幸福になりたい」という気持ちではないでしょうか。

 

その気持ち自体は、「個性ある魂が、さらに伸びていこうとしている」ということですから、根本において、そう悪いものだとは思いません。しかし、個人の「伸びていこう」とする思いが、他の人々の犠牲の下に成り立つようになると、大きな問題が生じてくるのです。

 

「自分を伸ばし、自己実現をし、多くのものを手に入れた人が、他の人々から多くのものを貰いつづける」ということのみをよしとするならば、世の中は、恨みや怨嗟、不平不満の声で満ち満ちていくことになるでしょう。

 

幸福の体現者となり、多くの人々の愛を受け、信望を受けるに至った人は、みずからの立場をよく自覚して、その愛を他の人々に分け与えていくため、愛の具体化に心を砕いていかなくてはなりません。

 

いや、この世的に優れた人、恵まれた人が、愛の具体化に取り組むことは、そう難しくはないでしょう。むしろ、「自分はまだ恵まれていない」「まだ衣食が満ち足りていない」「まだまだ自分の願望が達成されていない」と思う人が、愛の具体化に挑むならば、それは極めて尊いことなのです。

 

満ち足りた者が他の人々に与えるのは、さほど難しいことではありません。しかし、自分がまだ満ち足りておらず、充分ではないのに、それでも、他の人々を幸福にしていきたいと思っている人の願いは、仏の最も愛する願いなのです。その尊い志を仏は喜ぶのです。

 

あるいは、むしろ、自分はまだ自己実現ができておらず、満足するところまで来ていないのにもかかわらず、それでも、他の人々に愛を与えようと思い立ったときには、実は、霊的な目で見たならば、その人はすべてを与えられているのです。

 

そうなのです。「与えられているか、いないか」ということが、物質的なものに関してならば、「まだまだ」という未達成感もあるでしょう。しかし、食べ物、家や土地、お金などに関しては、「まだまだ不充分だ」という現実があったとしても、他の人々に愛を与えんと決意したとき、その人には、霊的にすべてのものが与えられたのだと考えてもよいでしょう。

 

人間の、地上での学習にとって、いちばん大切なことは、愛を人生の目的にすることです。人生の目的である愛に気がついたときに、その人はすべてを与えられたと言ってもよいのです。

 

そして、持たざる者が、与えることに目覚めたときに、その人に仏より与えられる愛の量は、すでに自己実現をなし、自己満足の状態にあって、他の人々に愛を与えんとしている人に与えられる愛の量よりも、はるかに多いものだと言えます。

 

---owari---

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