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前野良沢と杉田玄白 ~ 日本初の洋書翻訳

2022年12月09日 | 日本
百日間学んだだけのオランダ語の知識で、二人は専門医学書の翻訳に挑んだ。

(「医学の基本である人体の内部の仕組みも形態も知らず」)
明和8(1771)年3月4日、千住刑死場での腑分け(死体解剖)に立ち会った前野良沢(りょうたく)、杉田玄白(げんぱく)、中川淳庵(じゅんあん)の3人は放心したように、隅田川沿いを歩いていた。澄み切った水の流れる川筋には春の気配がただよっていたが、目を落として歩く彼らはそれには気がつかなかった。玄白が深いため息をついて言った。

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まことに今日の腑分けは、なにもかもすべて驚き入るばかりでした。いやしくも医の業をもって主君にお仕えする身でありながら、医学の基本である人体の内部の仕組みも形態も知らず、今日まで禄(ろく)を食(は)んでいたとは面目もない次第です。
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玄白の眼には、涙さえ浮かんでいた。「申されるとおりです」と良沢も淳庵も深くうなずいた。日本の医学は中国の五臓六腑説を基にして発展してきた。

しかし、良沢が長崎でオランダ語をわずか百日という限られた期間で学んだ際に入手したオランダの『ターヘル・アナトミア』という医学書に出ていた人体図が、五臓六腑説とはあまりにも違うので、三人はこの腑分けに立ち会って、どちらが正しいのか、検証したのだった。

腑分けした内臓の様子は、『ターヘル・アナトミア』の人体図そのものだった。三人は今まで学んできた中国医学が全くあてにならない事を知って愕然(がくぜん)としたのである。

(「われら同志、力をあわせつとめれば」)
良沢は立ち止まって言った。
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いかがでござろう。このターヘル・アナトミアをわが国の言葉に翻訳してみようではありませぬか。もしもその一部でも翻訳することができ得ましたならば、人体の内部や外部のことがあきらかになり、医学の治療の上にはかり知れない益となります。

オランダ語を我が国の言語に翻訳することは、むろん至難のわざにちがいありませぬ。しかし、なんとかして通詞(通訳)などの手もかりず、医家であるわれらの手で読解してみようではござらぬか。
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「よくぞ申された」と良沢が腹の底から声をしぼり出すように言った。

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実を申すと、私は、二、三年以前からオランダ書を翻訳いたしたき宿願をいだいてまいりましたが、一人ではかなわず、かと言って志を同じくする良友もござらぬ。そのことを嘆いて鬱々(うつうつ)といたずらに日を過してまいりましたが、おのおの方がなんとしても翻訳の業を果したいと欲せられるなら、まことに心強きかぎりです。

私は、昨年長崎へもゆきオランダ語も少々おぼえてまいっておりますので、それを手がかりに、このターへル・アナトミアの解読に取りくんでみましょう。
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玄白は激しく声をふるわせて、応えた。

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それは、なによりも心強い。われら同志、力をあわせつとめれば、必ずその努力は報いられましょう。心をふるい立たせかたく志を立てて、力をかたむけ申さん。
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彼ら三人は、眼に涙を浮かべながら、互いの顔を見つめ合っていた。

(「江戸でオランダ語を学ぶのは時間の無駄」)
早速、3人は翌早朝から、良沢の家に集まって、解読を始めようとした。と言っても、良沢が長崎で3ヶ月ほど学んだだけで、その実力は今日の中学一年生の英語力程度だろう。淳庵はA、B、Cを知っているだけ。玄白はそれすらも知らないという有様だった。

当時、長崎にオランダ語の通詞はいたが、彼らはオランダ人となんとか会話を交わせる程度で、オランダ語の本を読める人間は皆無だった。

かつて、良沢と玄白は、オランダ人とともに江戸に出てきた通詞を訪れて、オランダ語を教えてほしいと頼んだ事があった。通詞は長崎で日常的にオランダ人に接している自分たちですら簡単な会話しかできないのに、江戸でオランダ語を学ぼうとするのは、時間の無駄だと、けんもほろろの答えだった。

玄白はそれでオランダ語を断念した。「通詞などの力も借りずに」と言ったのは、その時の無念の思いがあったからだろう。しかし、良沢はすでに47歳になっていたにも関わらず、オランダ語習得をあきらめなかった。オランダ人も日本人も同じ人間である。同じ人間として、オランダ人が書き記したものを日本人が理解できないはずはない、と考えた。

良沢は藩医として仕えている九州・中津藩の藩主・奥平昌鹿(まさか)にオランダ語習得のための長崎遊学を願い出た。昌鹿は西洋文明を学ぶことの意義を理解して、苦しい藩財政の中から費用を工面までしてくれた。

感激した良沢は旅費を節約しながら長崎で百日間オランダ語の手ほどきを受け、同地のオランダ人から『ターヘル・アナトミア』を譲り受けて、江戸に戻ったのだった。

(「櫓(ろ)も梶(かじ)もない船で大海に乗り出すようなもの」)
良沢は1ヶ月間、玄白と淳庵にオランダ語の基礎を教えた後、『ターヘル・アナトミア』の翻訳に取り組み始めた。彼らの眼前のページには、横文字がびっしりと並んでいた。淳庵が「良沢殿、少しはおわかりになられますか」と尋ねた。

「皆目、見当もつきませぬ」と良沢は弱々しく応えた。玄白も深くため息をついて、つぶやいた。

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まことにろ櫓(ろ)も梶(かじ)もない船で大海に乗り出すようなもの。茫洋(ぼうよう)として寄るべきかたもありませぬ。
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良沢は眼を閉じ、腕を組んで天井を仰いだ。その懊悩(おうのう)の姿に、玄白たちの顔にも絶望の色が濃くあらわれた。

机の上に開かれたページに差し込んでいた昼の陽光が、やがて夕闇に変わっていった。彼らは口数も少なく座を立ち、良沢の家を辞した。

(「この書にある人体図から手がけるぺきです」)
みな医者として多忙な毎日を送っていたが、玄白も淳庵も約束の時日には必ず良沢の家にやってきた。ある日、定刻にやってきた玄白は座につくと、こう言い立てた。

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良沢殿、私は、あらためて翻訳を志した日に立ちもどって考えてみました。このオランダ医書の翻訳を志した最大の動機は、解剖図の正しさを確実に理解したぃと思ったことにあるはずでござるが、それならば、われらの翻訳事業は、この書にある人体図から手がけるべきです。

この人体図には、頭から足先までA、B、Cなどの記号が付されております。人体ならば、われらもよく知っております。これは単なる推測でござるが、記号が付してあるところから察して、この書の中に人体各部の説明が書かれておるにちがいありませぬ。
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「よいことを思いついて下された」と言って、良沢はページをめくり始めた。人体図の頭を指すのか、髪の毛をさすのか分からないが、そこに「A」という記号が打ってある。人体図の前後で「A」の文字を探しているうちに、良沢の顔が紅潮した。「ありましたぞ。これに違いはありませぬ」

Aの文字の後の一文に、「Hoofd」という単語が見つかった。それが頭を指すことは、良沢の限られた語彙(ごい)の中にあった。「頭でござる。Aは頭でござる。頭髪ではない」と良沢は狂ったように叫んだ。その眼には涙がにじんでいた。

良沢が学んでいた語彙には人体の各部の名称を表す単語がかなり多かった。この方法で、鼻、胸、腹などが解明できた。知らない語彙もあったが、彼らは人体図を見ながら意見を交わし、その語の意味を推察し、単語集を創っていった。こうして1ヶ月後には人体各部のオランダ語名称をすべて知ることができた。

(「人体の最も上に、頭があるではござらぬか」)
しかし、人体の各部の単語を知ったとしても、それだけでは医学に役立つ知識にはならない。各部がどのような役割を果たしているのかを読み解かなければならない。

"Hoofd"の後には、"oppereste"という語が続いていた。この意味が分からない。良沢は長崎で手に入れていたオランダ語-フランス語辞書を引いてみた。フランス語の部分は全く分からないが、オランダ語にはオランダ語の注釈がついている。"oppereste"の語を引いたが、その説明文がまた分からない。その説明文の中の単語をまた調べるという作業が続いた。

良沢は何日も、その作業を続けた。日がいたずらに過ぎ、良沢の頬もこけていった。ある日、良沢は言った。「今まで調べたところによりますと、このオペルステは、最も上という意としか考えられません」

「最も上でござるか」玄白はつぶやいた。そして不意に顔をあげた。「もしかすると、、、。いやたしかでござる。たしかでござるぞ」玄白の目が異様に輝いた。「人体の最も上に、頭があるではござらぬか」

はじけるような笑い声が、かれらの間から起こった。彼らは立ち上がるとたがいに肩をつかみ、手をにぎりあった。やがて彼らは腰を下ろし、目頭を押さえた。

(『解体新書』の出版)
こうして翻訳の作業は少しずつ進み始めた。良沢が推定した語の意味をもとに、3人で文章の言わんとする所を考える。最初のうちは、一語を解明するのに何日もかかったが、徐々に語彙が蓄積されてくると、一日に10行ほども進むようにもなった。

皆で解き明かした文章を、玄白は克明に記録し、家に帰ってから清書して、次の会合に持参してきた。一語でも躓(つまづ)くと先に進めない良沢に対しても、玄白は分からない所はそのように記録しておいて、先に進むように仕向けた。

また、日本語にはまったく存在しない人体各部の単語もたくさん出てきた。たとえば「視聴、言動を主(つかさど)り、且(か)つ痛痒(つうよう)、寒熱を知る」という"Zenuw"なる器官は神秘的なので「神経」という訳語をあてた。

こうして249ページにわたって、オランダ語でぎっしりと書かれた医学書が、3年5ヶ月かかって翻訳された。『解体新書』と題された訳本は、玄白の考えで、唐人にも読めるよう漢文で出版された。

しかし、キリスト教が西洋諸国の世界侵略の手段となっていることを警戒して、幕府はキリシタン関係書の流通を禁じていた。医学書とは言え、その禁制に引っかかることを恐れた玄白は、大胆にも訳書を将軍に献上した。オランダ医学に反発する漢方医たちからは激烈な批判が寄せられたが、将軍が嘉納(かのう:ほめ喜んで受け取ること)した以上、政治的には問題とならなかった。

一方、良沢は、まだまだ訳の不完全さが残っているので、出版には賛成せず、訳者の中に名を出すことを辞退した。玄白の考えは良沢とは対照的で、多少、不備な点はあっても、この書を一日も早く出版して、世の医家たちに利益を与えるのが自分たちの義務だと考えた。

(日本文明の重大事件)
『解体新書』の出版以降、杉田玄白と前野良沢のそれぞれの人生は別々の軌跡を辿っていった。翻訳者として玄白は有名になり、その塾はオランダ医学の中心として、多くの門下生を育てて行った。後進の育成に熱心なだけに、その門下からは天下を代表する蘭学者が育っていった。

また、玄白はオランダ医学に基づいた治療にも熱心で、江戸屈指の名医として繁盛し、はては将軍への拝謁(はいえつ)の栄誉まで与えられた。

一方、良沢はオランダ語学に打ち込んだ。医学書だけでなく、西洋の城郭構築法からカムチャッカ半島の地理風土まで幅広くオランダ文献を翻訳し、海防の強化を訴える人々に影響を与えた。さらにオランダ語の入門書として『和蘭訳筌(おらんだやくせん)』を著した。しかし、相変わらず完全な訳ができるまではと出版を控えたため、富とも名声とも無縁な余生を送った。

こういう対照的な性格を持つ二人の協力がなければ、そもそも『ターヘルアナトミア』の翻訳は不可能だったろう。その後も良沢の地道な翻訳活動と、玄白の人材育成、社会への普及活動が相まって、江戸末期に西洋医学の普及が進んだ。

明治日本は、開国してからわずか二、三十年で北里柴三郎、高峰譲吉、野口英世など欧米にも認められる医学者・化学者を輩出するが、それは良沢、玄白の二人が維新の百年も前に開いた道があったからであろう。

福沢諭吉は『ターヘル・アナトミア』の翻訳を、日本文明の重大事件と位置づけた。その偉業を顕彰(けんしょう)して、政府から正四位が、良沢には明治26(1893)年に、玄白には明治40(1907)年に贈られた。
(文責:「国際派日本人養成講座」編集長・伊勢雅臣)

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